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血の味がした。
血を吸っているのだから当然なのだが、あまりそれ自体の印象が大きくないので、味を感じてふと思い出すのだ。
吸っている量に比べて、体の中に入ってくる気の量が多すぎる。ヴァーシャはなんだか不思議に思った。
思ったというよりも、感じていた。頭が完全に麻痺してしまい、全てが感覚的に流れて行く。
脇腹の傷が少しずつ癒されていくのも感じた。驚異的な速度で、ヴァーシャの身体は回復していっているようだった。
傷の質が違うのだろうか、これまで何回か普通の人間の生気を奪ったときとは違い、身体そのものが変化していくような感覚を覚えた。

「手加減ないな」
ヴァシリーがそんな言葉を発したので、少女は彼から口を離して顔を上げた。
何と言われたのかよくわからなかったが、青年は笑顔だった。
「そんなに命をあげてしまうと僕もちょっと辛いよ」
ヴァーシャの腕を解いて自らの首に軽く触れてから、ヴァシリーは言った。
小さく息を吐くと、編んでいた髪を解く。

「……痛かった?」
理性を少しずつ取り戻しながら、ヴァーシャは小さな声で訊ねた。
ヴァシリーは複雑な表情の彼女に目をやると、首を振ってにやりとした。
「ドキドキした」
「…………?……!!」
ふざけたように言われて少し考えたあと、大分我に帰った少女は真っ赤になった。
怪我で生気に飢えていたとはいえ、醜態をさらしてしまったものだ。

「ご、ごめんなさい」
混乱しながら彼女が謝ると、ヴァシリーは可笑しそうに首を傾げる。
一瞬目を閉じると、ヴァーシャに向かって静かに微笑んだ。
その表情に少し安心して、ヴァーシャも彼に微笑み返す。

「残酷なことを言って良いかな」
再び紡がれた青年の言葉に、少女の表情が固まった。
「君はもう随分僕の影響を受けてた。力も一緒に強くなってた。
 そして、特に僕のことを食べた影響は大きい」
「……どういうこと?」
急に淡々と語り出されて、少女は狼狽する。
青年はそんな少女をただじっと見つめている。
ただこちらを見つめているだけのその目がやけに恐ろしく感じて、ヴァーシャはそれ以上何も言えなくなった。

「もう君の身体は、少しずつでも人を食べていかないと保てない。
 君の身体は、村にいた頃と変わってしまっているということだよ」

ヴァシリーは「残酷なこと」を口にし終わったようで、
ヴァーシャがそれをまだ飲み込めないでいるのを、ほんの少し憐みのようなものをこめた眼で眺めていた。
彼女にはよく分らない。変わってしまったなんて自分では判別できないし、この場では確かめようがない。
それに、どうせもう村には戻れないのだから、そんなことは良いはずだ。
気にしなくても良いはずなのだ。
これまでの自分の考えを見るとそうなるはずなのだが、それなのにヴァシリーの言うことは確かに彼女にとって残酷に響いた。
今まで自分がいた場所がぼんやりと遠ざかっていくのを感じた。

「今も、知ってたけど言わなかった。
 君にあのまま死んでほしくなかったし―――これが僕の望みだから。
 でも、これで君は本当に僕と同じになった。僕しか頼る相手はいないんだよ」
ヴァシリーは言った。ほんの少し嘲りを込めたような笑みを浮かべて。
ある種の意趣返しだろうか、とヴァーシャは思った。なぜか一月ほど前の、あの雷の夜が思い出された。
彼はヴァーシャの反応が見たいようだった。ひどく丁寧に言葉を紡いだ。

「僕を、恨むかい?」


ヴァーシャは俯いたが、小さく首を振った。
ゆっくりと微笑んで顔を上げる。
「だって私は生きたかったもの」
彼女の心は奇妙なくらいに穏やかだった。ただ思ったように、言葉を紡ぐ。
「私のことを試したいの?いつも優しいと思ったら脅すようなこと言うんだから」
少女の言葉に、ヴァシリーは目を瞬かせる。
一瞬難しい顔をした後で、憮然として言った。
「君がはっきりしないから」
「否応なく付いてくるのでは嫌だって言ったくせに」

ここで例えば、執着していた故郷を失った彼女をひたすら慰めでもすれば、簡単にヴァーシャは何の迷いもなくこの「同族」の青年について行っただろうに、彼は何故かそういうことをしてくれないのだ。
今までと同じように。警告でも発するかのように、自分が危険な存在だとでも言いたいように。
少女がただ見つめていると、青年は言った。
「そうかもね」

「試しているのかも。君がそれでも傍に居てくれるのか」
「かもなのね」
「よくわからない」
「自分のことなのに?」
「そう」
正直に言う青年に、ヴァーシャは笑みをこぼした。
「私もよくわからない」
彼女は言った。目を閉じてから、また柔らかい微笑みを浮かべた。
そして、ヴァシリーの首に腕をまわした。
「脅されても、村の人が、私の友達が食べられても、身体が変わっていくのがあなたのせいだとしても―――
 どうしてもあなたのこと、嫌いになれないの」
不思議だね、とヴァーシャは囁くように言った。
彼女の身体を引き寄せると、ヴァシリーは少しの間黙っていたが、そうだね、と微笑む。

「あなたについて行くから」

ヴァーシャはそう言った。

「連れて行って」

互いに表情は見えなかったが、きっと彼は微笑んでくれるだろうとヴァーシャは思った。
あるいは触れ合っているところから、感じ取ったのかもしれない。
傷つけられた恐怖や、村を離れた喪失感はまだ胸の中にあったが、それでも彼女にはこうしていることがひどく心地よく感じた。
互いに包み込むように身を寄せていると、頭がまたぼんやりしてくる。そのまま溶けてしまうのではないかとさえ思う。
治っているか確かめるように、ヴァシリーの手が傷口を撫でていた。
くすぐったくなったヴァーシャは手を押し戻そうとするが、するりと軽くかわされる。
何か言おうと開かれた彼女の唇を、青年の唇が塞いだ。

*

ヴァーシャは森の中を思い出した。
古い森の中は静かで心地良い。
昔全ては一つだったのだと、風呂小屋にいた黒いものが言っていた。
きっと昔々、あの森にいた頃、自分とヴァシリーは一つだったのだ、と彼女は思った。
いつかどこかで別れてしまったのだ。
今ならまた一つに戻っていけるような気がしたが、本当はそれが出来ないことも分っていた。
幸せを感じながらも、自分たちが別々であることが悲しかった。
いつかまた離れていくことが悲しかった。

「……でも、そう思いながらでも一緒にいるんだわ」
ヴァーシャがぽつりと言うと、ヴァシリーは寝言だとでも思ったのか、小さく笑って彼女の頭を撫でた。
なぜかその感触が懐かしく感じられて、少女はまた目を閉じた。

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