35

ヴァーシャは体を休めながら日々を過ごした。
離れれば記憶が薄れるかとも思ったが、旅に出た青年についての思いは薄れなかった。
せめて無事だけでもわからないものかと感覚を研ぎ澄ましてみるが、
村から遠く離れた彼のことは少しも分らなかった。

「愛なのね」
とイリンカはうっとりして言った。
ヴァーシャはその様子に吹き出したが、友人はなんだか頷くのだった。
「いいじゃない、一年くらい花嫁修業すればいいじゃない」
「花嫁って」
「あら、おかしくはない年じゃない」
ヴァーシャは苦笑いをした。あまりヴァシリーの興味のありそうな話とは思わなかったからだ。ヴァーシャ自身もそんなに興味があるわけではなかったが。
ともかく無事で帰って来てくれれば良いと彼女は思ったが、一度帰ってきたら、今度は王さまのところに行ってしまうのだろう。そうしたら、果たして無事でいられるのだろうか。
思い悩みながらも、それを表に出さないことが出来るくらいに回復したヴァーシャは、
友人が話す良い花嫁についての話に相槌を打つ。
気がかりなことがあっても、こうして糸を紡いだりしながら、他愛のない話をするのは気持ちが休まるのだった。

「おまじないもあるのよ、元気な赤ちゃんが生まれるの」
話が飛びすぎではないかとヴァーシャは笑ったが、
「でも丁度今晩出来るわよ。満月だもの」
笑われたイリンカがむくれて口にした言葉にはっとした。

「満月……」
ヴァーシャは仕事の手を止めて呟いた。
「そうよやってみる?」
イリンカは嬉しそうに身を乗り出したが、ヴァーシャはいくらなんでも気が早いと言って断った。
残念そうにする友人を宥めながら仕事を終わらせると、
彼女はその足で森へと向かって行った。

*

ヴァーシャが目指したのは普段の森ではない。以前一度だけ行った森だ。
どうやって行けるのかについてはよくわからなかったが、
ヴァシリーと見た森の記憶とやらをもう一度見なければいけないと思った。
あの古い森に溢れているのは、古い力だ。
王さまが現れる前に世界に満ちていたはずの力だ。
何かそれを見ることで、状況を良くするヒントが掴めないかと思ったのだ。

困った時はということで、少女は友人家の風呂小屋にこっそり忍び込んだ。
例の黒いものには失敗した時以来会っていなかったが、
いつものように笑いながら彼女を迎えた。
「やあ、失敗したそうだね」
「……鍵じゃなかったわよ」
ヴァーシャが避難めいた口調で言うと、黒いものはやっぱり笑った。
「私は聞いた話をそのまま伝えただけだよ。信じるかどうかはお前の勝手だったのだよ」
「腹立つ」
彼女はぼそりと言ったが、教えてもらっただけで確かに保証のある話だったわけでもなし、
喧嘩しに来たわけでもないので話を進めることにした。

「昔の森に行きたいんだけど、何か聞いたことある?」
「今日は満月だからね」
黒いものはゆさゆさ体を揺らした。
「私たちのような古いものは、思い出すだけでもう入ることが出来るよ。
 滅多に行かないがね」
「思い出す……」
「そうさ」
黒いものは言う。
「まるで自分が既にそこにいるかのように思いだしていると、いつの間にか実際にそこに立っているのだ」


ヴァーシャは森へ入った。
今までたくさんの人々が、入って戻ってきた森。
そしてあの満月の日を思い出した。懐かしい力に溢れた冷たい森を。
光の模様に照らされる従兄の青年の顔を思い出したところで、不意に少女は空気が変わったのに気付いた。
彼女が一人で立っているのは、力に溢れた古い森だった。

*

光の模様を目指してヴァーシャは歩き始めた。
立っていたのは以前毛皮の男と入ったときとは別の場所のようだったが、
あの光の模様の空気に関しては間違えようがなかったので、感じるままに彼女は歩いて行った。

しかし模様が見えてきたところで、ヴァーシャはふと足を止めた。
遠くで気配がする。
正確な距離はわからなかったが、どこかで気配が動いているのがわかる。
ヴァシリーの気配だ。
「……無事なんだわ」
ヴァーシャはほっとして息をついた。
どうやらこの古い森が、彼女に力を与えてくれているらしい。
村の中では分からなかった旅立った人の気配を、ここでは感じ取ることが出来る。

彼女はしばらく感覚を鋭くしてじっとしていたが、
そこで違和感を抱いた。
ヴァシリーとは別のどこかに、他にも変な気配がある。彼とはまた全然別のような、かといって似ていると言われれば否定もできないような、妙な感覚だ。
「何かしら」
ヴァーシャはひとりごちた。もしかしたら新しい「仲間」かもしれない。
しかしその気配は遠く、ここで考えていてもらちが明かないので、彼女は模様の方へ歩き出した。

模様を前にしたヴァーシャは、目を閉じて光に触れるようにした。
力があるものというのは、みんなある程度模様が読めるのだという。
それを教えてくれたヴァシリーは言った。それでも、ヴァーシャの読む力は具体的だと。
具体的なことに関して読み、理解する能力に長けているのだということだった。

意識を集中させ、いつだったかの夕べの集いでやったように何かを読み取ろうとする。
目を閉じても光は瞼の向こうで瞬く。
具体的な問いをしようと、頭の隅でヴァーシャは考えだした。
たとえば、大きすぎる力を支えるための体。世界に力を満ちさせる方法。
王さまを滅ぼす方法。

ばちん、と耳元で音がして、ヴァーシャは思わず目を開けた。
真っ暗な中に彼女は立っていた。目の前にほの白く光るものがある。大きな樹だ。
薄い紅色の花をつけ、満開で立っていた。近寄って幹に触れてみると、ざわざわと音がした。
雑音がひどくてよくわからないが、複数の人間が喋っているようだ。
心なしか映像のようなものもちらちら伝わってくるような気がする。
ヴァーシャたちの村とは似ていない、妙な服を着た人々。豊かな水が流れ、大きな建物が見える。

見たこともない光景に彼女が首を傾げたとき、突然扉が閉まったかのように何も聞こえなくなった。
はっとして周りを見ると大きな樹も消えており、本当に辺りは真っ暗になってしまった。
ヴァーシャがとっさに思い浮かべたのは、自分の住む村のことだ。
すると、目の前に村が現れた。
ほっとしてヴァーシャはそちらへ一歩踏み出す。

すると、体に大きな衝撃が走った。急に動けなくなる。
蹲って辺りを見回したヴァーシャの目に入ったのは、村が真っ赤になっていく様子だった。
人が走っているようだが、黒くぼやけてしまって見えない。
ヴァーシャは怖くなって必死に映像を消そうとしたが、そこから抜け出すことが出来なかった。
赤い色は炎のようでもあり、血のようでもあった。
同じようなものを見たことがある。ヴァシリーの手に触れた時だ。

「いや……」
ヴァーシャは小さく悲鳴を上げたが、その声はどこにも届かない。
意識を失うと、そのまま彼女は崩れ落ちた。

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