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ヴァーシャが目を覚ますと、傍に母親が座っていた。刺繍でもしているらしく、手がせわしなく動いている。
暖かい。彼女は思った。窓から柔らかい光が漏れてくる。
いつの間に自分の家に帰ったのか、ヴァーシャの記憶は曖昧だった。
母親に話しかけようと顔を動かそうとするが、ひどく体が重かった。

「……母さん」

呼びかけた彼女が声も出ないな、と思っていると、声を聞きつけた母親は作業中のものを放り出して駆け寄ってきた。
ヴァーシャは面くらってしまった。母親がその場で泣き始めたからだ。
「どうしたの、一体」
戸惑いながらヴァーシャがぽつぽつと問うと、母親は答えた。
「三週間近く眠ったままだったのよ」
手を握ってくる母親の手が、とても温かく感じられた。
「もう起きないんじゃないかって思ったわ」


ヴァーシャは信じられない思いで話を聞いていた。
雷の土曜日「いつのまにか」部屋に戻っていた彼女は、そのまま朝になっても目覚めなかった。
揺さぶっても叩いても駄目だったという。医師や術師を呼んだが、彼らも疲れて眠っているだけに見えると言ったそうだ。
母親の憔悴した様子に心が痛んだヴァーシャは、必死に彼女を慰めたが、相手の手を撫でる手にも力が入らない。自分がこうでは説得力がない。
そうか、とヴァーシャは思った。
ヴァシリーに食われたからだ。以前毛皮の男に命を吸われたときの感覚に近かった。
自力で回復しようとするとこうなってしまうらしい。
そうは思いながらも土曜日の出来事はぼんやりとした夢のようで、彼女は母親の目を見つめて問いを一つ口にした。

*

イリンカはいつものようにお見舞いにやってきてぎょっとした。
三週間ほど前から眠ったままだった友人が目を覚ましていたからだ。
しかし彼女が驚いたのはそこではなく、その病み上がりみたいな友人が、友人宅の戸口でうずくまっていたからだった。
母親に引きずられて家の中に戻されようとしている友人の少女に、イリンカは駆け寄った。

「いったいどうしたの」
「術師さんたちの庵に行くって聞かないのよ」
ぐったりしている少女の代わりに、母親の方が答えた。
「もういないって言ってるのに」

眠っていた時のまま青白い顔の少女は、信じたくないというように首を振った。
懸命に外へ出ようとするのだが、止められるまでもなく体が動かないようだった。
母親とイリンカは少女を抱えて家の中へ戻った。

*

既に術師たちは旅立ってしまった。
従兄の居場所を尋ねてそう返されたヴァーシャは、確かめに出ようとしたが、それも叶わない。体は動かないし、母親と友人も止めた。
本当は、行ってみなくたってわかるのだ。どんなに手繰っても、あの森から戻ってきた青年の気配は村の傍にはなかった。
別れも言えないうちにいなくなってしまったのだ。

ヴァーシャは疲れて泣くこともできずに座っていた。
目は覚めたものの、暫くは調子が悪いままだろう。
命を分けてもらった時のことを思い出して、彼女はまた悲しくなった。息が出来ないわけでもなければ体が壊れてしまうわけでもなかったが、実際に彼がいなくなってみるとひどく不安で、信じられないくらい胸が重かった。

「ねえ、元気出して……」
元気がない友人を心配そうに眺めながら、イリンカが言った。
「うん……」
ヴァーシャは答えはするものの、ぼんやりと考え込んでいる。
イリンカはそれ以上かける言葉を思いつかなかったのか、口を噤んで下を向いた。
ヴァーシャは気を使う余裕がなかったので気にしながらも放っておいたが、
突然イリンカがぽろぽろと涙をこぼし始めたのでびっくりして身を起こした。

「ど、どうしたの?」
ヴァーシャが尋ねると、イリンカは泣きながら言った。
「ごめんね、私あなたがあの人の所に行ったの知ってたのに、誰にも言えなかったの。
 あなたが寝込んじゃってから、問い詰めようと思ったんだけど、怖くて―――」
ヴァーシャはきょとんとして友人の言葉を聞いていた。
そういえばあの日も風呂小屋から出たのだった。成程あの後彼女が目覚めなくなったのだから、誰だって従兄が何か知っていると思うだろう。
「別に何もしてくれなくて良かったんだよ。泣かないで」
下手に近寄ってまた食べられてしまっても困る。
ヴァーシャが言うと、イリンカは涙に濡れた瞳を上げた。
「……ごめんね……」
友人の様子に、ヴァーシャはほんの少し微笑んだ。
これ以上ないほどに落ち込んでいた気分が、他の人が落ち込むと逆に冷静になったりするものだ。

「あの人のせいじゃないよ」
彼女はそう言いながら、そっと自分の首筋に触れてみた。
噛まれた部分がどうなっているのか自分では見えなかったが、触った感じではもう傷はふさがっているようだ。
実際は彼が生気を吸ったせいでこうなったのだからイリンカに言ったことは真実ではなかったが、彼女はそもそも彼を傷つけに行ったわけで、自業自得だと思っていた。
「そうなの?」
イリンカは納得しにくいらしく、しきりに首をひねっていたが、
ヴァーシャがそう言うのならそういうことにしよう、と思ったらしかった。

「何かあったら言ってね」
イリンカは言った。
「私、助けるからね」
真摯な口調の友人を見て、ヴァーシャはなんだか少し胸の中が暖かくなった。
母親だって、眠っている間ずっと付いていてくれたのだ。
異質なものが彼女一人でも、彼女はこの村に居てもいいのだ。

「ありがと……」
ヴァーシャははにかみながらお礼を言うと、
「私、ここであの人を待つ。大人しく」
そう言って微笑んだ。
ヴァーシャの言葉に、イリンカもにっこりした。

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