32

振り下ろした杭は、胸に届く前に止まっていた。
ヴァーシャの手は動かなかった。
ヴァシリーの腕に掴まれて、空中でそれ以上下ろせなくなってしまっていた。
少女は目を見開いて、青年の顔を見る。
目を開けた彼がまっすぐに彼女の目を見ていた。

「……こんなこと、どこで習ってきたの?」

一言そう言うと、ヴァシリーは彼女を引き倒した。
「い、や―――」
悲鳴を上げる間も無く押さえつけられ、気付けば自分の持ってきた杭が自身の胸の上にぴたりと当てられている。
ヴァーシャは息を呑んだ。彼女がその杭で突こうとした青年は、逆に彼女に覆いかぶさって上から見つめていた。
「うそつき」
ヴァシリーはほんの少しだけ笑みを含んだ声で言った。
「味方にはならないけど、敵にもならないって言ったのに」
ヴァーシャが目を瞑ると、ヴァシリーは興味無い様子で小さな杭を投げ捨てた。
からん、という軽い音。うっすらと目を開けると、杭が部屋の端の闇の中へ転がっていくのが映った。もう手は届かなかった。

「ヴァシリー」
ヴァーシャは口を開いた。何も考えていないのに、一言だけ言葉が零れた。
「ごめんなさい……」
「謝ってどうにかなると思ってるわけ?」
遮るように彼は言う。
言葉を失った少女を眺めた後、彼女の頭に巻かれたスカーフをはぎとると、それも床に捨てた。
「仲間が欲しかったんだけどな」
青年はゆっくりとと少女の耳元に顔を寄せる。
ヴァーシャは何と言っていいのか分からず唇を戦慄かせたが、やはり声は出なかった。
どうしようもなくて、目を閉じることしか出来なかった。

ほんの一瞬の間、ヴァシリーはその様子を眺めていたが、 「もういいや」
気味が悪いほど優しい声で囁いた。
「身体だけでも連れていくから」
そしてそのまま、少女の首筋に自らの牙を突き立てた。

首筋に走った鋭い痛みに、少女は悲鳴をあげて抵抗した。
しかし相手は彼女の肌に牙を埋めたままびくともしない。
不意に、少女の全身に痺れが走る。痛みが消えていき、強張っていた体が弛緩する。
手足に力が入らず、暴れることも出来なくなった少女は、ぼんやりと宙を見つめた。恐怖も感じなかった。

*

本当は、血なんて吸わなくても命を奪うくらい出来た。
相手によってはこういうこともするが、基本的にはこんなことをするのは
命を吸うのに媒介が必要な力の弱いもの達や、相手を食らう感触が欲しいもの達だけだ。
それでもヴァシリーが少女に牙を立てたのは、見せしめのつもりだった。
よく考えたら彼女はまだ仲間になるのを誓ったわけでもないのだし、腹いせに近いものかもしれない。
とにかく彼はヴァーシャが恐怖を感じるように、あえて血を流させたつもりだったのだが―――
逃げるどころか縋りつくようにして服を掴んでくる細い腕に、訝しげに顔を上げた。

「……どういうつもり?」
ヴァシリーが態と冷たい声をかけると、それまで目を瞑っていたヴァーシャはゆっくりと彼の方へ視線を向けた。
「人形になったら……」
腕の中の少女は囁くように言う。
「私の、今の意識は、どうなるの……?」
体はだるそうだったが、一生懸命に言葉を紡いでいる。
ヴァシリーは命乞いか何かをされるものだと思っていたので、彼女の口から零れたのが問いだったのに驚いた。
しかし、どうということでもない。
「さあね。消えるんじゃないかな」
言うと、聞いていた彼女はぼんやりと頷いた。
「消える、の?」
「怖い?」
微笑んで、訊ねてみる。
怖がる様を見せるかどうかが気になったので顔を寄せたが、
そこで彼は、ヴァーシャの様子がなんだかおかしいのに気付いた。
その茫然とした表情が緩む。力なく微笑んだ彼女は、心底ほっとしているように見えた。
彼女はぽつりと言った。

「もう、考えなくても良いの?」

*

「……ヴァーシャ?」
ヴァシリーが不思議そうに名前を呼ぶと、少女はぎゅ、と彼にしがみついてきた。
「……選ぼうと思ったわ、考えたの」
ヴァーシャはくぐもった声で喋り出した。
「でも無理だったの。村とあなたとどちらを失うかとか、
 それだけだって考えたくなかったのに、王さまとか、あなたの体のこととか、
 しかもあなた私の友達に手を出すし、
 ぐるぐる考えてたら、なにも分らなくなってしまったの」
淡い色の大きな瞳が潤み出すのを、ヴァシリーは不思議な心持で眺めた。
ヴァシリーや、恐らく彼女自身が認識していたよりもずっと、ヴァーシャは追い詰められていたようだった。
何かをずっと押し込めてきたものの、ここにきて一気に枷が外れてしまったらしい。
殆ど錯乱しているのではないかと思うくらいに、
ぽろぽろと涙を零しながら彼女は訴えた。
「力なんて大きくしないで。どこにも行かないでよ」

「……それで僕のことを殺そうとしたの?」
ヴァシリーは静かに言った。
彼が初めて見る少女の涙を物珍しげに眺めていると、彼女ははっとしたような表情を浮かべた。
そして、戸惑いながら問いに問いを返す。
「殺す?」
「山査子の杭」
ヴァーシャは暫し目を瞬かせた後、ふるふると首を振った。
「殺そうとなんてしてないよ。力を弱くしようとしただけ」
青年は眉を顰めると、どうやら彼女の言っていることが本当だと悟って、天を仰いで大きく息を吐いた。
「……僕らの体の回復力は高いけど、それで心臓は死んじゃうよ」
目を丸くした少女は首を傾げてしばらく考えていたが、ヴァシリーの言葉に納得したようだった。
少し冷静になって、ヴァーシャは、小さな声で言った。
「どっちみちあなたの邪魔をしようとしたのよ」
「酷いな」
ヴァシリーは苦い笑いを浮かべた。ヴァーシャは頷く。
「行って欲しくなかったの」
ただ相手の目をじっと見つめて、自分の心だけ言うことにしたようだった。

「私はただ、この村で―――今までと同じように、あなたと一緒に暮らしたかったの。
 どっちが欠けても耐えられないと、思ったの」

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