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春を迎える祭から一週間ほど、ヴァーシャは家に籠りがちで過ごした。
ヴァシリーが言ったとおり、イリンカは目覚めても変わったところはなかった。
ちょっと貧血気味だったのと、ヴァシリーのところへ行ったことをすっかり忘れてしまっていることを除いては。
しかしヴァーシャは、なんだか人の傍にいるのが怖くなってしまい、家族にさえ殆ど触れずに過ごしていた。母親は心配したが、少女は塞いでいる理由を話そうとはしなかった。ただ、黙々と日々の作業をしていた。

「雷?」
だから、娘が久しぶりに傍に寄って口を開いたとき、母親は嬉しそうだった。
「そう、いつもこの時期だよね」
ヴァーシャは春先の雷について訊ねていた。
いつも春が来る前に、一週間ほど風と雨、そして雷が続く時期がある。
春先の雷には特別な力がある。小さい悪い生き物たちをこの時期の雷が打つと、彼らは滅びてしまうという。
だから小さいもの達は隠れ家を求め、村の中まで入ってこようとするといわれていた。
それを防ぐために、術師たちが村の境界で番をすることになっていた。

「そうね、そろそろだと思うわよ」
母親は首を傾げて、おっとりと言った。
「術師さんたちもねえ、もう小屋の準備をしてたもの。
 半分くらいは南に行っちゃうって言うけど、来年は人手が足りるのかしら」
ヴァーシャほんとだよね、と呟くと、腰に巻いたエプロンをたくしあげて座り込む。
団子のように丸めたその布の塊を握ってじっとしていると、暖炉の中を覗きながら母親が言った。
「うちの一番近くの小屋にはヴァシリーが入ってくれるって」
多分自宅近くの小屋に配備されるのだろう、従兄も雷の時期はそこに入るのだ。
確か見張り番は一つの小屋に一人だったはずだ。
ヴァーシャはゆっくりと立ち上がり、久しぶりにイリンカのところへ向かった。

*

「今週か来週の土曜日?」
久しぶりに訪れたヴァーシャを友人は歓迎したが、まだあまり体の調子が良くないようだった。
壁にもたれかかって考え込むイリンカを眺めながら、ヴァーシャは自分にも従兄のように命を注ぎ込むことが出来たら良いのにと思った。
失敗して逆に吸ってしまったら目も当てられないので、試してみることもできない。
「多分大丈夫。また何かするのね」
イリンカは嬉しそうな顔をした。
「あ、そうかあ、術師さんたちが見張りに立つんだ。
 お仕事の邪魔しちゃ駄目よ」
そう言いながらにやにやしている友人を、内心複雑な気持ちで眺めながらも、ヴァーシャは微笑んだ。
「大丈夫。今度だけよ」
「そうなの?」
ヴァーシャは問われて頷いた。
「チャンスはその日だけだから」
その声に静かな決意を感じ取ったイリンカは、少し真面目な顔つきになって頷き返した。
「頑張って。応援してるから」

暫くお喋りした後に、ヴァーシャは友人の家を後にした。
イリンカは変わらなかった。ヴァーシャにはそれが嬉しかった。
もしも彼女が「失敗」して、そしてもしも人形にされてしまったら、友人はその変化に気付いてくれるだろうか。
多分気付かないだろうけど、いや気付いてしまってヴァシリーに目をつけられたりしない方が寧ろ良いんだけど。
ヴァーシャは思った。
もしも自分が変わってしまっても、今の自分は親しかった少しの人たちの中に残るだろうか。
エプロンのポケットに忍ばせた固いものに手で触れながら、少女は家路を辿った。
風が強く吹き、山の向こうに見える空が光ったようだった。

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