29

ヴァーシャは走った。
誰かが大きな力を使っている。いや、誰かなんて判断を躊躇う必要もない。血の匂いが漂ってくるように、ヴァシリーのいる方角からその感覚はやってきていた。
術師たちの庵の、あまり人の来ない、隅の方。
彼がいると思しき場所に駆け込んだヴァーシャの目に、見覚えのある光景が写りこんだ。
スカーフの解けた女の子。その首元に顔を埋める青年。

「……やめて、やめてなにしてるのよ!」
ヴァーシャは驚いて顔を上げた従兄を突き飛ばすと、彼が抱えていた女の子を抱きとめた。
少女の友人の、風呂小屋の女の子。イリンカだった。
彼女はすでに殆ど意識を失っていたが、なんだかきょとんとした顔で宙を眺めていた。
ヴァーシャの顔を判別したらしく、なんだか名前を呼ぼうとしたようだったが、
そのままぐったりと眠ってしまった。
抱え込んだ体重を支えきれずに蹲りながらも、
ヴァーシャは従兄の青年の顔を見上げて声を絞り出した。

「食べたの?この子のこと」

「見ればわかるだろう」
ヴァシリーは溜息を吐いて、少女達を見下ろした。
「そろそろまた誰か食べようと思ってた日に、この子が走りこんできたんだ。
君が変な男に捕まってるって言って」
彼は言いながら、ゆっくりと首を振る。
「なんのことはない、知り合いのことだったからさ。そこは安心だなって。
それで、丁度良いし頂こうと思って」

ヴァーシャは茫然としながら話を聞いていた。
意識の無いイリンカの顔に視線を落とすと、首筋から微かに血が流れ出していた。
急いでスカーフで抑えて、体をぎゅっと抱き込む。ちゃんと暖かかったが、力の抜けた身体が心もとない。
風呂小屋へ迎え入れて慰めてくれた友人の顔が頭に浮かんで、ヴァーシャは泣きたくなった。
今まで人々が変わってしまうことに無関心だったことへの、罰があたったのだと思った。

「怒ってるの?」
ヴァシリーは平静な口調で訊ねてきたが、ヴァーシャには答えることが出来なかった。
もうこの場に座っているだけで、いっぱいいっぱいだった。
「友達だから駄目ってことかな。区別がはっきりしてるんだ」
そんな風に言う彼がなんだか酷く冷酷な存在に見えて、彼女は目を背けたくなる。
初めて本当に相手のことが怖いと思った。
「……こうしなきゃ駄目なの?」
ヴァーシャの細い声が響く。震えてしまって大きな声にはならなかったのだ。
「こうしなければ、あなたは生きていけないの?」

「僕くらい力が大きくなれば、定期的に人の命を吸わないとだめだ」
青年はいつも通りの笑みを浮かべたが、優しいものとは言えなかった。
「まあ別に、一人の人間のを吸いつくすようなやり方をしなくてもいいんだけどね」
「……」
ヴァシリーはそのままぼんやりと返事を聞いていたヴァーシャの前に歩いてきて、ぴたりと立ち止まった。
屈みこみ、友人を抱えたままの彼女と目線を合わせる。
すいと伸ばされた手に彼女はびくりとしたが、青年の手はヴァーシャの首筋―――いつだったか守りを与えたそこを、するりと撫でただけだった。

「君もいずれ僕のようになる。忘れないで」
ヴァシリーは言って、立ち上がった。
ヴァーシャは身じろぎもできず前を見つめたままだった。

「その女の子は人形にしてないよ」
座り込んだ彼女の後ろから、遠ざかる声が聞こえた。
「君もうっかり食べてしまわないように、気をつけて」

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