26

イリンカは、急に眼を開くと慌てて立ち上がった。
「あれ?私、いつの間に寝ちゃったの?」
あたふたと膝に掛けられていた上着をはぐと、
傍に座っていたヴァーシャの方へ寄ってくる。
ヴァーシャはそんな友人を見て小さく笑うと、手にしていたカップを掲げて「あなたの番」と言った。

「従兄の人、映った?」
起き抜けながら溌剌としたイリンカの言葉に、ヴァーシャはきょとんとする。
別に彼はそんなんではないと口を尖らせたところで、イリンカはちょっと呆れたように言った。
「だってあなた、他の子なんて目に映ってもいないじゃない。
 傍にいれば、他の人なんていないって明らかよ」
「でも……」

否定できなかった。
確かに特別な、若い男性と言うとヴァシリーのことしか思い浮かばない。
ただしこの元気な友人が語るような、恋人とかとは少し違う。ただいなくなって欲しくないだけだ。
説明するのも難しいので、ヴァーシャは曖昧に頷いた。友人がなぜだか嬉しそうに笑ったので、まあここはこれでいいか、と思った。

「ねえ、もしも」
ヴァーシャはにこにこしているイリンカに訊ねた。
「もしも、私がまた夜中に出かけたいって言ったら、またここを貸してくれる?」
問われた彼女は思案気に首を傾げたが、空いてる日ならいいわ、と快く引き受けた。
ただし彼に会いに行く時には教えてね、とイリンカは言った。
上手くいったら教えてね、と言った。

*

ヴァーシャとしては、別に恋人になりたいとかそんなんじゃない。
自分の傍からいなくならないでほしい。それだけだ。
それも従兄の体を持って戻ってきた彼が、少女と同じ存在であるという彼がいなくなったら、少女の存在が損なわれるような気がするから―――という、飽くまで我が身の平穏のためだ。
友人が思っているような、甘く優しげなものとは違ったので、彼女は少々後ろめたかった。

朝になるまでお喋りした後、いつの間にか眠ってしまい、
ヴァーシャが友人の家の風呂小屋を出たのは日も高く昇ってからになった。
朝の仕事ができなかったから、家に帰ったら怒られるだろう。
そう思いながらも、彼女は上の空で歩を進めていた。


家に入ると母親と―――なぜかヴァシリーがいた。
遅くなることは予測されていたようで、何も言われなかった。
しかしそのことに安心するような余裕はない。席を外したヴァーシャの母親を見送ってすぐ、従兄の青年は口を開いた。

「昨日、森にいたね」
ヴァーシャは一瞬迷ったが、多分隠しても仕方ないと思ったので頷いた。
毛皮の男に見つかった時点で不安には思っていたのだが、
やっぱりヴァシリーも気付いていたのだ。
「見たかったんなら、言ってくれれば安全な場所を用意したのに」
彼はわざとらしくため息をついた。
「そんなことしてもらう義理、無いよ」
ヴァーシャはむくれて言う。
青年は探るような眼で彼女を眺めていたが、何を考えているかはヴァーシャにはわからなかった。
粉屋さんは戻ってきたよ、とヴァシリーは言った。
でも元通り、普通の粉屋さんだった、と残念そうに言った。

「昨日は、まあ良かったけど」
そう言うヴァシリーの声は、作ったように柔らかかった。
「僕らの力が弱まる日とかもあるからね。
 あんまり変な所に行かない方が良いよ」
「力が弱まる日?」
ヴァーシャは興味を引かれて従兄の傍へ寄る。
普段あまり見られない彼女の表情に、ヴァシリーはおや、という顔をしたが、それ以上話すことを躊躇っている様子だった。
ヴァーシャは一瞬考えた後、彼に訊きなおした。
「その日だったら、私も普通の人達と同じように見える?
 それはいつなの?」

問われた彼は拍子抜けしたような顔をした。
ヴァーシャの質問は彼の気に入らなかったようで、
「そんなに弱くなるわけないだろう」
と彼にしては珍しく、少々無愛想に言った。
「弱くなったって人間になるわけじゃない。少し感覚が鈍くなったりとか、その程度だよ」
「そうなの」
ヴァーシャが落胆した様子を見せると、ヴァシリーもつまらなそうに彼女から目を逸らした。

「……だから別に、村の中で普通に暮らしている分には気にしなくて良いんだ。
 土曜日なんて毎週来るものだから」
少し無愛想な従兄の声に、ヴァーシャは顔を上げた。“その日”は、土曜日らしい。
「……じゃあ、村から出ないようにする」
「それがいいと思うよ」
少女と従兄の青年は、その後つらつらと当たり障りのない会話を続けた。
仲間云々という話は出なかったので、ヴァーシャとしてはありがたかった。

土曜日か。
彼女は会話を続けながら、従兄の方を盗み見る。
こんなに早く知ることができるとは思わなかった。
自分たちの感覚が弱まる日。
従兄の中のものの感覚が、弱まる日。

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