25

「なに……」
ヴァーシャが恐る恐る近づくと、それはゆるりと微かに震えた。
毛むくじゃらの生き物にも見えるし、煤の塊にも見える。
しかしなぜか彼女には、それに意志が宿っていることがわかった。
そしてそれが正しいことはすぐにはっきりした。その黒いものは言葉を発したのである。

「こんばんは。お前は、森のものだね」
笑みを含んだようなくぐもった声は、黒いものから少女へとまっすぐに届いた。
「私は……そうみたい」
自信がないけど、とヴァーシャは眠っている友人の方を気にしながら囁いた。
それに気づいた黒いものはくすりと笑って言う。
「いまどきは、家のものでさえ家の精霊を見れないんだよ。
 眠らせているけれど、気にしなくとも大丈夫さ」
察するに、それは人の家に棲みついている霊のようなものらしかった。
すでに変わった現象に慣れてしまっているヴァーシャは、黒いものへと声をかける。

「私が見えるものだって、森のものだって、わかったの?」
「そりゃあ、お前たちは有名だよ」
黒いものはもそもそと体を震わせて笑う。
「いまどき随分精力的に活動している蘇りもいたものだと、
 我らのような者の間では注目の的さ」
どうやら黒いものが言っているのはヴァシリーのことであり、ヴァーシャはその仲間だと理解されているようだった。
黒いものは語った。彼らのように古く古くから意識を持っているものや、
人の家に入って暮らしていたもの達を集めて従兄が酒を振る舞ったこと。
特に古い者たちには、王さまが現れた時のことを聞いていたこと。
黒いものは気まぐれそうだったが、物知りで率直であり、ある程度は信用できそうな感じだ。
ヴァーシャはそう思って、大人しく話を聞いていた。

「確かに我らはこのままでは力を失って、消えてしまうだろう」
黒いものは言った。
「しかしまた最初に戻るだけだ。
そういう考え方が、お前たちにはできないのだね」
ヴァーシャは一緒にされてちょっと困ったが、かといってそういう考え方が理解できるわけでもないので黙っていた。
代わりに別のことを尋ねる。
「王さまを倒すって、どう思う?」

黒いものはぶるぶるっと体を震わすと、意地悪そうに言った。
「非現実的だね」
ジョークだったのかもしれない。笑いながらふるふると震えている。
「神さまを倒した今、世界は王さまを中心に構成されている。一人消しても次が生まれてくるだろう?
少なくとも現在の世界の基盤は王さまが握っているしね。
私は王さまに会ったことなどないから、それが本人にどう認識されてるのか知らないが。
いくらお前たちが神さまの欠片を持っていたとしても、
不利だと思うね」
よっぽど反則をしなくちゃね、と黒いものは笑う。
ヴァシリーが特別になったきっかけだと以前言っていた、良いものというのは、
どうやら神さまの欠片と呼ばれているらしい。
世界を作り、整え、統べる力を持ちながら、王さまに殺されたという神さまの。

不意に、従兄の手を握ったときに見た、血塗れの彼の手が脳裏に蘇る。
今まではてっきり、彼が傷つける他人の血だと思っていた。
けれど今は、それが彼自身のものにも思われた。
嫌な予感ばかりがした。王さまを相手にする。その上、その前段階でまだ問題があるのだ。

「……これ以上力を持ったら、あの人の体は壊れてしまうっていうの」
ヴァーシャは黒いものに訊ねた。
「なんとか止められないかしら」
黒いものはすぐに、
「体の崩壊を?それとも、王さまに手を出すのを?」
と尋ねてきた。
問い返された彼女は迷いながらも、両方、と答えた。

「なら簡単だ。あれの力を奪えばいいんだよ」
その毛むくじゃらのものは言った。
「中途半端に力を持っているから世界を覆そうなどと考えるのだ。
人間程度に力を弱めてしまえばいい。
いくら古の力を手に入れていたとしても、
どうせこの世で王族に対抗できるほどのものではないさ」
なにせ王族は神をも殺したのだから、とそれは言って、嗤った。

「力を奪うって……」
ヴァーシャは戸惑って、黒いものの言葉を繰り返した。
力が弱くなれば、体への負担も少なくなるのだろうし、
王さまに挑んでいこうなんて気もなくなると黒いものは言う。
完全に奪う必要なんてない。せいぜい自分くらいのものにすれば、人の世でゆっくりと暮らせるのではないだろうか。そうヴァーシャは思う。
けれど、その代り彼の夢は潰えるのだ。
真剣な表情で語っていた、従兄の青年の顔が思い出された。
「……そんな、力を奪う方法なんて……あるの?」
唇から、知らず知らずのうちに言葉が零れていた。 黒いものがまた、静かに笑う。
心臓の奥にひやりと冷たいものを感じながら、ヴァーシャは黒いものの返事を待った。

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