16

ヴァーシャは必死で神経を集中させていたが、やはり村の中の妙な気配は一つだけだった。
しかも忌々しいことに、今回はその一つが従兄ではないとはっきりわかる。
いつの間にか彼らの違いがわかるようになったのか、彼らの質が変わったのかは分らない。
とにかく今はそんなことを考える余裕もなく、彼女は一つの気配の方へ向っていった。

「どうして」

いきなり声をかけられた毛皮の男はゆっくりと振り返った。
驚いている様子はない。恐らく彼も彼女が近付いてくるのが分かっていたのだろう。
黙ったままヴァーシャの方を眺めていたが、彼女が駆けつけてきたことについて、快く思っていないのは
なんとなく伝わってくる。
それでも少女は気にせずに、息を整えるのもそこそこに質問を繰り返した。

「どうしてあの子がああなっているの」

毛皮の男は答えずに、またゆっくりと瞬きする。
真っ青になっているヴァーシャを眺めながら、渋々と言った様子で口を開いた。
「あの子と言われても、私には何の事だか」
「知らないの……?」
少女の声は心なしか震えているようでもある。
ヴァーシャは混乱していたし、集中し続けて疲れていたし、相手の言うことの真偽も良く考えられなかった。
「あなたの主はどうしたの」
ヴァシリーの居場所を問うと、毛皮の男は首を振る。
「森に行っている」
「私には居場所が分からないわ」
「隠れておられるのだろう」
それだけの力を持つ方だから、と男は言った。

「……昨日会った子が、変わってしまっていたの」
ヴァーシャがぽつりと言った。
「それが何か」
毛皮の男はそう答えた。
ヴァーシャが下から見上げるように彼に視線を動かすと、毛皮の男は無表情にそれを受け止める。
片眉だけわずかに動かして、彼はその先の言葉を紡いだ。

「その人間は、お前の友人か、恋人か?
今まで村の人々が変わっていっても、大して気にしていなかったのだろう」

少女は俯いて、唇を噛んだ。確かにその通りだったからだ。
もともと誰が変わってしまっても、それほど関心を持っていない筈だった。誰も困っていないようだったし、少しずつ人々の輪に混じるようになった後でも、彼女にとって村の人々は一歩離れた存在だったのだ。
家族でも標的になれば流石に違ったかもしれないが、彼女の数少ない家族には今まで被害が無かった。
身勝手な話ではあるが―――ああいう人々が増えていったとしても、自分の村での生活が脅かされなければ良かったのだ。
しかし今回は状況が違った。

「……ああ」
毛皮の男は怪訝そうに少女を見ていたが、暫くして無感動に声をあげた。
「もしかして、心当たりがあるのか」

ヴァーシャはびくりとした。
俯いたまま目を大きく見開く。
脳裏に浮かんだのは、昨晩のことだ。少年の体がひどく熱かったこと。
似たような感覚を持ったことがあったのを、今朝、変わってしまった彼を見た瞬間に思い出した。
流れ込んでくる熱は、ヴァシリーが命を助けてくれたときに感じたものとよく似ていた。
命を吸われた彼女に、命を流し込んでくれたときの感覚に、似ていた。
今朝起きたとき、昨日までは感じていただるさも全くなくなっていた―――

固まったまま何もしゃべらなくなった少女にうんざりしたのか、
毛皮の男は大きくため息をついた。
そして彼女に背を向けた。
恐る恐る顔をあげたヴァーシャに、そのまま声をかける。
「来い」
その声は淡々としていたが、やはり不機嫌そうに感じられた。

「あの方のところへ連れて行く」

*


森の空気が違う。
一歩足を踏み入れた瞬間、ヴァーシャは思った。
外から見た時はいつもの森だったのに、今彼女が歩いている場所はまるで違う場所のようだ。
森は危険だというけれど、そんな風に言われていたところさえも、所詮は自分たちの世界の延長だったと分る。
そして彼女は、その感覚をどこか懐かしい思いで受け止めていた。

毛皮の男はすたすたと先を歩く。
歩幅が違うのでヴァーシャは小走りについて行った。
ヴァシリーの居場所がわかるのかと彼女が問うと、男は答えた。
「わからないが推測は出来る」
彼はあまりヴァーシャとは話したくないようだ。
二人はそれきり言葉を交わすことなく歩き続けた。
ヴァーシャは森を眺める。
冷たく暗いが何かに満ちた森。
細かい光をそこかしこに含みながら、それをそこに住む者たちに与え続けている。
歩いている彼女の体の中にも、森の空気が流れ込むようだった。静かに身体に力が満ちてくるようで、その気になれば何もかも忘れられそうだった。
流れ込むもののすべてが、ちらちらと違った意味をもって、瞬く。そうしてその中に、探していたものを見つけた。

「あっち」

ヴァーシャが先に立ったのを見て毛皮の男は無反応だったが、歩く速度をゆるめて彼女の後に続いた。
歩き続けること数分、木立が突然開けた。

そこにあったのは美しい模様だった。


「光だわ」
ヴァーシャが呟いた。

そこは、周りの地面よりぽっかりと、深く穴のあいた場所だった。
穴が深くなるにつれ、広がっていっているような暗がり。水がたまっているが、森の中が暗いのもあって浅いのか深いのかすら判別できない。
そしてその空間の上に、ちらちらと色を緩やかに変えながら、光の模様がかかっていたのだ。

「これはなに?」
毛皮の男に問う。男は答えなかった。
彼は模様を直視出来ないようだった。ヴァーシャは首を傾げる。
俯くようにして森の奥を眺める男から視線を外し、少女がまた光の模様の方へ眼を向ける。
すると、穴の向こう側に従兄の青年が立っているのに気付いた。

ヴァーシャが駆け寄ると、ヴァシリーは嬉しそうに笑った。
「見えるんだ」
「見える。あれはなに?」
少女がまた問うと、従兄の青年は光の方へ視線を移す。
「まだ森に―――世界に、力が満ちていた頃の記憶だよ」
「記憶……」
ヴァーシャもまた光の方へ目をやる。うっかりしていると、心を奪われてしまいそうだった。
「誰の記憶なの?」
「この場所自体に残っている記憶だよ。
限られた日にだけ現れるんだ。今日の晩は満月だから」
ヴァシリーは光の模様を愛おしげに眺めた。
少女には彼の心内がわからなかったが、しかし同じような気持ちになれる気がした。

青年は少し離れた所に立っている毛皮の男に頷くと、
ヴァーシャの手を引いて穴から離れた。
あまり長く眺めていると、森から出づらくなるということだった。
ヴァシリーは穏やかで、落ち着いていた。振る舞いは村にいる時とそう変わらないように見えるが、やはり森の中の方が彼にとっては楽なのだ。
ヴァーシャも初めて入ったこの「森」が心地よく感じられた。
外のことがどうでも良くなってしまいそうだ。

けれど残念なことに、彼女はどうしても、どうしてここに入って来たのか思い出さなければならなかった。
「訊きたいことがあって来たの」
少女はさりげない調子で口を開いた。
「私は人を食べたの?」

青年は何も言わずに微笑んだ。

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