12

その日ヴァーシャは、従兄の家の方へと足早に歩いていた。

朝、少女が目覚めるといつもと村が違っていた。
村がというのは大げさで、変化というのは村の中の一人だけの話だったのだけれど―――それでも少女にとっては重要な一人だったから、村どころか世界に変化があったといってもいいかもしれない。
彼女は二つあった従兄たちの気配が一つになっているのに気付いたのだった。

従兄が南の土地に行くと聞いたヴァーシャは、それからずっと一人で考えていた。
自分でも不思議なくらいに不安になった。
従兄がいなくなったら、ひとりぼっちになってしまう。
彼より近しい両親も親戚も、年の近い友人も親切な知り合いも村にはちゃんといる。彼女は自分が村に溶け込めるようになっていると自負している。
それなのに、従兄がいなくなったら、自分一人が異質なものになる気がするのだ。
彼によって変えられてしまったのだろう虚ろな人々だっているのに、どうしてもそんな気がしてしまうのだった。

とりあえずヴァシリー本人から話が聞きたいのだが、
最近の彼は忙しそうだった。出かけたり術師たちとこもったりで、二人で話が出来る時間などなかなか無い。
さらには以前ヴァーシャと喋ったりしたような隙間は、今は大体例の毛皮の男と打ち合わせをしているようだった。
避けていたから、避けられるようになってしまったのだろうか。少女は憂鬱になったが、それでも従兄が一人でいるはずの今は逃せないチャンスだと、勇んで家を出たのである。

伯父や伯母に見つかると面倒なので、こっそりと家の方を通り過ぎ、
以前ヴァシリーと消えた女の子を見た裏側に回る。
側にいるはずの気配の主を探してきょろきょろしていると、唐突に声が掛けられた。

「何をしに来たのだ」

ヴァーシャは少々の失望とともに振り向いた。気配の主は毛皮の男だった。

「村に入れるようになったの?」
「私は、入っていない」
男はいつも簡潔に言葉を紡ぐ。
「人間には私があの方の姿に見える」

従兄のことだ、とヴァーシャは思った。
目くらましをかけているということだろう。ヴァシリーの行方を尋ねてみたが、毛皮の男は出かけていると言ったきり押し黙ったままだった。
少女は毛皮の男を見る。なんとなく、彼は自分のことを好ましく思っていないのではないかと感じられた。
比較的無口であるのは恐らく性格だろうが、彼女を見る男の眼には疑念が混じっているように思われた。

「……あなたも南に行くの?」
ヴァーシャは毛皮の男に尋ねる。
「残れとは言われていない。一緒に行くだろう」
男は布に覆われた口から低い声を出した。
何か聞けばある程度会話はしてくれるのだ、と気づいた彼女は、さらに質問をした。

「あなたはどこから来たの?やっぱり森から戻って来たの?」

男は微かに眉根を寄せた。答えたものかどうか、考えているらしい。
ほんの少し苛ついているようにも見えた。
しかし、やはり低い声で返事を口にした。

「この森の向こうの村の一つから来た」
男は森の方へ眼をやった。
「私を蘇らせたのはあの方だ。あの方の力になるために生まれなおしたのだ」

ヴァシリーはそんなこともできるのか、とヴァーシャは内心で驚いた。術師の修業をしているのだから、そこで学んだ方法を使ったのかもしれない。
彼の異質さを近しいものに感じているくせに、自分は彼について全然知らないのだ。
「あなたも、人を変えてしまったりできるの?」
落ち込みそうになる気分を振り払って、ヴァーシャは尋ねる。
毛皮の男は、少し驚いた顔をした。
それから、表情を少し変えた。今その眼に浮かんでいるのは、疑念ではなく失望だった。

「本当に、何も知らない」

少女は一瞬きょとんとする。毛皮の男が彼女に一歩近づいた時、男の言葉が自分のことを指して言っていることに気付いた。
ヴァーシャが何も知らないことが、彼にとっては気分の悪いことだったらしい。
それに気付いたのは、一瞬の間に彼女に歩み寄った彼が、彼女の腕を掴んだ後だった。

「―――やだ」
少女は小さく悲鳴を上げるが、男の方は意に介した様子もない。
逃れようとする彼女に淡々と、独り言のように呟いた。

「お前の力は私よりも上だ。
けれど自覚のない状態ならば―――私でも、食べることができる」

ヴァーシャはぎょっとして、足だけで後ずさろうとする。
従兄に言われた時よりも、食べるという言葉が現実的に聞こえた。
腕を掴んでくる手は、彼女の眼には獣のように映った。人の体に獣の手が接木のようにくっついている。
そんな手で実際は腕なんて掴めない。これは、この間の従兄の血まみれの手のような―――

「狼……」

少女がぽつりと呟いた瞬間、毛皮の男の動きが止まった。
そして同時に、少女の男に掴まれたのとは反対の腕が、後ろからぐいと引っ張られた。
振り向くと、険しい顔をしたヴァシリーが立っていた。

黙って少女の腕から男の手を外すと、静かな声で彼は言う。
「君は、君の家へ帰って」
「でも、私あなたと話しに来たの」
なんだか混乱して、やけに懸命にヴァーシャは言ったが、従兄はただ首を振った。
「後で行くから」
どうしよう。少女は迷った。身体の力が抜けてしまったような感じで、頭が働かなかった。その場は変な雰囲気になっている。従兄と毛皮の男の間に、ほんの少し険悪な何かが感じられる気がしていた。

「本当に、来てくれる?」
「すぐ行くよ」

ヴァシリーが微笑んで頷いたので、彼女はよろよろと走り出した。
身体は少しずつ重くなった。すぐに走ることもできなくなる。
家に辿り着いたヴァーシャはぼんやりとした意識のままで、自分の寝床に倒れ伏した。

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