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その日、ヴァーシャはジャムの瓶を届けに従兄の家を訪れていた。

ヴァシリーの両親である伯父夫婦と彼女の両親は仲が良く、
お互いに余裕をもってものを作っては、子どもたちに届けさせるのがしょっちゅうだった。
普段は品物を置きに行って、何やら手伝ったりごちそうになったりして、真っ直ぐに家に帰るものだ。
しかし、何故だかその日、ヴァーシャの足は家の裏―――
暗緑色の藪のある、薄暗い場所へと向かったのだった。
従兄がそこにいるのはわかっていた。別に会いたいと思ったわけではない。ただなんとなくだったのだ。

しかし彼の姿が見えた瞬間、少女はぎょっとして立ち竦んだ。
ヴァシリーは一人ではなかった。女の子が一緒だった。
しかも間の悪いことに、ヴァーシャが顔を出したのはちょうど彼が女の子を引き寄せて腕の中に抱き込んだ瞬間だた。困った少女はとりあえず藪の陰にしゃがみ込んで、恐る恐る向こうの男女に目をやる。
女の子のことは知っていた。少女より一つ二つ年上の、同じ村の女の子だ。
親しいわけではないが、おっとりときれいに笑う娘で、可愛い子だと思った覚えがあった。
従兄と面識があるなんて知らなかったが、とにかくその彼女は身じろぎもせず従兄の腕に抱かれている。

ヴァーシャの混乱は増すばかりだったし、だいたいこんなところで覗き見しているなんて人としてどうだろう。
恥ずかしくなってこっそりと家の表の方へ向いながらも、つい彼女は後ろを振り返る。
女の子の頭に巻かれていたスカーフがするりと解け、左肩に流された長い焦茶の髪が見えた。
そこに顔をうずめる青年の姿が目に入って、少女の頭は真っ白になった。

そのまま走っていつの間にか家に着いていたのだが、
気になって次の日見に行った例の女の子は、もう前のようにきれいに笑わなかった。
顔の筋肉は同じように動いているのに、笑う彼女の中には何もない。
従兄が戻ってきた頃からこの村の中に増え始めた人形のような彼らと、同じようになってしまっていた。

*

「あの子、変わってしまっていたもの。いったいどこにやったの?」

ヴァーシャが責めるような口調で言ったのが可笑しかったのか従兄の青年は笑って答えた。
「だから、何もしていないよ。他の人と同じだ」
ヴァーシャは少し身を固くする。ちらりとヴァシリーの脇の人形に目を走らせてから、こわごわと訊ねた。
「……他の人ともあんなことしているの?」
「え?違うよ、大抵の相手はちょっと触れば終わりだけど」
女の子は柔らかくていいよね、とかけろりと言う相手にヴァーシャは困惑するが、いつものように追及せずに終わるわけにはいかないと考えた。

「あの、虚ろになってしまった人たちはどうなっているの?
ああいう人たちを増やして、あなたは何をするの」

俯いたまま尋ねる。気になったことはあるが、ずっとはっきりとは聞かなかったことだ。
逆にいえば、面と向かって追求するほど気に留めたこともなかった。
その事実から無自覚に目を背けながら、ヴァーシャは相手の返事を待つ。
「……今さら聞くんだ」
ヴァシリーの方も驚いたようで、意外そうな声が上の方から降ってくる。
「だって、皆大騒ぎしてるよ」
ヴァーシャはそう言いながら、そんなことが今さらそれを聞く理由になるだろうかと思った。
「だから?」
青年も少女と同じことを思ったらしい。
身を屈めてヴァーシャの顔を覗き込むと、彼は言った。

「虚ろになった彼らになにか深い理由があって、僕にやむにやまれぬ正当な理由があったら、君は殺気立った村人たちから僕を庇ってくれるのかい?」

彼はそんな風に言って微笑んだが、目が笑っていないように見えた。

「それとも、君は人間だから―――僕の目的を聞き出して、一緒に彼らに突き出すのかな」

ヴァーシャはどきりとした。
そんなつもりはない。彼のことをわざわざ差し出そうと思っているわけではない。
けれど彼女は思っていた。このままでは自分は蝙蝠だと。どっちつかずのまま、変わっていく村を見ている。
少女が苦い気持ちで立ち尽くしていると、従兄は小さな声で言った。
「言ったよね、誰かに話したら」
食べてしまうからね。
ひやりと冷たい手で彼はヴァーシャの手をとる。
気づけばひどく近くに彼の眼があったので、少女はますます狼狽する。
「脅しているの」
「君がいい子にしていれば脅しにはならない」
ヴァシリーはにっこり笑った。
ヴァーシャは混乱したまま顔を下に向ける。
眺めていた従兄はおとなしくなった少女を見て、脅しはもういいと思ったのか、微かにおどけたようなしぐさで肩をすくめた。

「実際のところ、僕は本当に彼女の行方を知らないんだよ。
僕も困ってる。まだもう少し静かにしていたいから」

ヴァーシャは黙ってそれを聞いていた。
疑いが消えたわけではなかったが、もうそれ以上聞く気にならなかった。
先ほどまでの彼の様子に気圧された、というのもあるが、それだけではない。
それどころではなかった。

混乱して俯いたその先にあったのは自分の手。
彼女のその小さな手を握るヴァシリーの手が、赤い。
繋がれた手だけに炎の色を映したように、ちらちらと赤く輝いている。
よく見れば炎の色だけでなく、黒ずんだ赤色が付いている。まだ乾ききらないべっとりとした血の色だ。

本当に彼女の手を握る青年の手が、昼の光に照らされた白い手なのも見えていた。
しかし、同時に頭の中で、触れているその肌から、彼の何かをヴァーシャは見ている。
友人と触れ合ったときに浮かんだ相手の過去や未来の風景のように、
今現在の現実ではないものが目の前に見えるように感じる。

固まってしまった少女が怯えてしまったと思ったのか、従兄は彼女の頭を軽く撫でた。
ものが焦げる臭いと血の匂いが濃くなって、ヴァーシャはぎゅっと目をつぶった。

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