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ヴァーシャとヴァシリーはその日森の中を歩いていた。散歩である。
ちょっと暇だから出てきたというような軽いいでたちだった。もちろん整備された人間のための空間なわけでなく、獣や思いがけぬ何か諸々が潜んでいる空間なのだが、二人に気にしている様子はない。
ヴァーシャは従兄にくっついているだけだし、彼の方はもともとこの森の住人なのだ。

「ほっぺたが痛い」
ヴァシリーは言った。
「良い気味よ」
ヴァーシャは眉を顰めて言った。
訪ねてきた従兄を笑顔で迎えてやったところ、彼が返してきたのは大変人を馬鹿にしたような笑顔だったからだ。彼女としては得意でない表情を頑張っていたので、少々傷ついた。とりあえず引っ叩いて心の均衡を守ることに成功したが、まだ気分は晴れないのだった。

もう頬の赤味は引いているのに、しきりに首を傾げながら痛い痛いと主張する従兄にヴァーシャは言う。
「そんなに痛くしてないよ。それに、自分の身体じゃないくせに」
「そうそう、それなんだ」
困ったことになってさ、と、従兄はくるりと彼女の方に体を向けて答える。
他に誰もいない森の中なので気にすることはないのだが、なぜか声をひそめて、内緒話をするように身を屈めた。

「この身体から出られなくなってしまった」

「……そうなの」
しばらくの沈黙の後、ヴァーシャはそう返した。
「それだけ?!」
従兄は信じられないといったような顔をする。なんだか悲しそうだ。
「だってそんな身体が着脱自由だとか私、想定してないし」
少女は責められて、怒ったように言った。
「それって困るの?」
「……」

ヴァシリーは不満げだ。
「あんまりこの身体、耐久性強くないし」
「貧弱だってこと?鍛えればいいじゃない」
「鍛えて何とかなるってものじゃない」
従兄の身体は、大きな力を振るうのにはそれほど適していないのだ、と従兄の中のものは説明した。
ある程度までは慣らすことで耐えられるけれど、それでも人間のレベルだと。
まだそんな兆候はないけれど、彼本来の力を使い続けることで、体が壊れてしまうかもしれないのが気がかりらしい。
もちろん身体そのものが壊れることでなく、定着してしまった自身が壊れることを恐れているのだ。

「術師になるのをやめて、普通に暮らせばいいよ。
もともとのその体の主はそうするつもりだったのよ」
ヴァーシャは提案するが、従兄は首を振った。
「だめだ」
難しい顔をして、彼は地面をにらみつけている。
「やりたいことがあるんだ」

そのまま彼が黙ってしまったので、ヴァーシャは困った顔で従兄を見つめていた。
彼の余裕のない姿は初めて見たと思った。にこにこと笑顔で戻ってきて、苦もなく村の中に溶け込み、いつの間にか虚ろな人々を増やしている、その従兄にも悩みはあるのだ。
小さな村の中ではできないこと。大きな力を振るわないとできないこと。
それが何だか彼女にはわからないし、無理に教えてもらいたいとも思わなかったが、
どうやら従兄には何か大きな目的があるようだった。

「南の方にいる人たちを知ってる?」
ヴァーシャはぽつりと声をかけた。
独り言のような様子だったが、彼女の従兄は黙って顔をあげる。

「この間、旅の人が来たとき、私こっそり話を聞きに行ったの」

旅をしている間に見聞きした面白い物の話をしてもらった。その中に、南の方に住む人々の話が混ざっていた。
そこは昔、大きな蛇が治めていた土地だという。王さまの力によってその蛇は滅ぼされたのだが、まだその土地には大昔から続く世界の仕組みと力が残っている。世界中から、それを聞きつけた不思議な力を持つ人々が集まっているのだということだ。
そういった人々の共同体ができており、その中では力の扱い方や成長のさせ方などが研究されているらしい。

「そこに行ってみたら、何か体に良い力の使い方が分かるかもしれないわよ」

ヴァーシャの言葉に耳を傾けていた従兄は、神妙な様子で頷いた。
言ってみた後で、もう従兄は南に住む人たちのことなどとっくに知っているかもしれないと思ったヴァーシャだったが、相手の反応は良いものでも悪いものでもなかった。ただ黙って考えているようだった。
南の方へ行くことでも考えているのかもしれない。
この村を出ていくのだろうか。
ヴァーシャがなんとなく居た堪れない心地で立っていると、それに気付いた従兄は慌てたように顔をあげた。

「ああ、教えてくれてありがとう」
ごく自然に、いつものように笑った。
「君は親切だ」
「そんなこと言わなくていいわ」
間髪入れずにヴァーシャが返した。従兄の口からそんな言葉が出たのに驚いたのだ。
なんだかごまかされているような気がする。さっきまでの悩みの話をなかったことにしたいみたいだ。
親切というのもまた、この間少女自身が従兄に言った言葉のような気がする。
苦い顔で自分を見つめる少女を見て、不思議そうにヴァシリーは言った。

「君は僕に味方してくれる、僕が人間でないことを知っていても。そうだろう?
不思議だけど、それが嬉しい」
彼はさらりとそんな事を言うのだった。裏のなさそうな声を出すのだ。

「だって、助けてほしそうな顔するんだもの」
ヴァーシャは言い返したが、自分でも不思議に思った。
なぜ一緒に来たんだろう、と。
少女は理解している。目の前に立っているヴァシリーが、従兄の身体をもってやってきた別のものだということも、それが村の人を何らかの形で蝕んでいることも知っている。
恐らく今はその気がないというだけで、機会があれば彼女のことなど簡単に始末できるのだろうことも、なんとなくわかっている。
けれどヴァーシャは彼が訪れてくれば戸を開けるし、誘われれば森にも散歩に来るし、特に恐怖は感じない。村の人々が変えられてしまっても、危機感も憤りも抱けない。
おかしい。

ほんの少しの疑念のようなものを込めて、少女が青年の方に視線を向ける。
瞳の中にそれを見たのか、視線を受け止めた彼は少しだけ悲しそうな顔をした。

どうしてだろう、とヴァーシャは思った。
彼の抱える問題に興味がないと思いながら、話を打ち切られると裏切られたような気持ちになるなんて。
悲しそうな顔をさせると、裏切ったような気持になるなんて。
まるで彼と自分が仲間であるかのように。

自分も既に蝕まれているのだろうか、と彼女は思った。

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