story

黒い樹の器と職人の話 * 8

黒い樹は静かでした。昨日の晩のことが嘘のように、柔らかく花弁を降らせながら立っています。

大巫女は職人に傍に立つように指示して、自分は地面に座り込みました。
手を模様でも描くように動かし、まじないを唱え始めました。
歌いながら手遊びでもしているようなその様子を職人は不思議な気持ちで眺めていましたが、不意に体がぐらりと揺れて、慌ててしゃがみこみました。
「地面が一回転したみたいだ」
職人が言うと、
「その表現は悪くないぞ」
大巫女は言いました。
「一回転したのは、世界だ。
樹の外側と内側が裏返って、我々は今樹の中にいる」

職人が辺りを見回すと、いつの間にか彼の見ていた景色は消え去っており、
時折光の筋がきらきらする、黒っぽい空間に二人で立っていました。



職人が目を丸くして大巫女の方を見ると、彼女はうっすらと微笑みかけてきました。
馬鹿にしているのか、落ち着けと言っているのか。
職人が判別に手間取っている間に、大巫女は僅かに顔を上げて言葉を発しました。

面紗を返しておくれ。

口を開いたわけでもないのに、ふんわりと内側から響くように彼女の声が聞こえてきます。
彼女はただ中空を見ていますが、内容から、黒い樹に話しかけているのだと分かりました。
続けて、ぐん、と空間全体が震えたかと思うと、何かの感覚が入ってきます。言葉ではない何ものか。
しかし、それが黒い樹からの返事だということが職人にも分かりました。
口にする言葉以外で相手の言いたいことをこんなにはっきり理解するなど初めての経験です。
黒い樹は説明を求めているようでした。
大巫女はまた声の無い言葉を投げ掛けます。
黒い樹に面紗を喰われたこと、自分がその面紗の正当な持ち主であること。だからそれを返してもらいに来たということ―――
大巫女は流石に黒い樹と話すのに慣れているらしく、話がどんどん進んでいる……ように職人には見えました。黒い樹もそう物分りの悪い方ではないようです。
黒い空間を漂っていた光の筋が一箇所に集まって、更に寄り集まったそれがぱくりと開くと、遠くに面紗の鮮やかな色がちらりと見えました。好きにしろとでも言うようです。

大巫女は黒い樹に礼を言うと、今度は職人の方へと向き直りました。
「妾は面紗を取りに行く。お前はここでまた妾がやったようにやってみよ」
「僕に出来るだろうか」
職人は薄々そんな気はしていましたが、それでも一人でやれと言われて躊躇いました。
「ここに来たのだから、やる気さえあれば出来る」
大巫女は早口で言いました。
「お前の欲しいものは元からお前のものではない。
持ち帰るには試練が与えられるだろう。
樹がお前の持つ理由に納得するかはわからないが、ものを手にしたら帰ってやるべきことを強く念じるのだ。
お前はもとより外の世界の者。本来居るべき場所に勝手に引き戻されるだろう。

*

職人は黒い樹と向かい合いました。
といっても相手の姿が見えるわけではありません。この空間そのものが黒い樹なのです。
職人は大巫女がしていたように、自分の心の中で言葉を念じました。

あなたの身体を分けて欲しい。

黒い樹はすぐに不快感を示してきました。
当然だな、と職人も改めて思います。自分だって身体をくれといわれたら、足の小指一本でも遠慮したいものです。
それでも職人には黒い樹の幹を手に入れなければならない理由があるので、
引くわけには行きませんでした。

ほんの少しで良い。どうしてもあなたの身体が必要なのだ。
あなたの居る土地で、困っている人たちを助けるためだ。

もう一度、今度は理由も添えて言ってみると、
黒い樹はふん、と軽く息を吐くような感触を返してきます。興味がないようです。
黒い樹は川が氾濫しようと影響を受けることはないでしょうし、
足元をうろうろしている人間たちがどうなっても特に気にしないのです。
職人はそっぽを向かれたような気分になりました。
実際黒い樹は職人に注意を向けるのをやめたのでしょう。
仕方ないので、彼は目を閉じたまま静かに座ると、
この仕事を請けてからのことを思い出しながら、ただ黒い樹の方へ伝え始めました。

初めて社の中へ入って、人々に出会って、自分の作ったものが受け入れられているのを見たりして。
誰かを助けるために物を作りたいと思ったのですが―――
そういえば、社に来る前はどうだったのだろうか。
職人が思わず首をひねったとき、

「やかましい」

後から声がかけられました。

職人が振り向くと、そこに立っていたのは年配の女性でした。
背筋はしゃんとしていますが、真っ白くなった髪。肉が落ちひどく細い首をしていましたが、厳かな表情には力があるようでした。
いきなり現れた老女に驚く職人でしたが、また困惑させられたのは、老女の纏う衣に気づいたからでした。
豪奢な衣装とともに肩から掛けられた衣は、大巫女の面紗にとてもよく似ていたのです。




「貴女は誰だ?」
職人が尋ねると、
「不思議なことを言う」
老女は口を動かしてそう言いました。その声は空間全体に広がり、しみこんで消えていきます。
「たった今までお前は私に話しかけていたはずだ、人の子よ」
職人はいよいよ混乱しましたが、一つしか答えが無かったので恐る恐る尋ねました。
「……黒い樹か?」
「お前とは話が通じにくいな」
老女の形の黒い樹は特に笑いも怒りもせずそう言いました。
どうやら埒が明かず、職人に合わせて人の姿をとってくれたようです。
意外と親切な黒い樹に、職人はまた認識を改めました。

「お前は私のために何が出来る?」
黒い樹は職人に向かって言いました。
「私の身体を分け与えたとて、私に価値あることが何も起こらぬではつまらぬ」
そう言われると、若い職人は困ります。
黒い樹にとって価値あることとは一体なんだろう。
樹であることを考えれば、光や水を沢山採ることも好きかも知れません。
それとも、昨晩の面紗のように、力の籠もった品物を食らうことでしょうか。

「山の向こうにある綺麗な湖の水を採ってこようか」
「地面の下には良い水が流れておる。そんなものはいらない」
「念の籠もった品物はどうかな」
「先程のもので十分だ。そんなものはいらない」

その他にも色々と言ってみてはそんなものいらないと言われるので、
職人は息切れしてきました。
せめて黒い樹の気に入りそうなもののヒントでもないものかと思うのですが、
なにしろ黒い樹の――使っている老女の――表情は、ほとんど変化しないのです。
だから終わりの言葉も突然でした。

「面倒くさい。お前は要らない」
黒い樹が言ったところで、黒い空間がみしり、と軋むような音を立てました。
自分をはじき出そうとしているのではと職人ははっとしましたが、
そのまま黒い樹が何かに目を留めて動きを止めたので、
彼も黒い樹の見ている方に目をやりました。

黒い樹の視線の先には面紗を大事そうに抱えた大巫女が立っていました。
蒼白な顔で、大きな目を見開いて。

「大巫女さま……」
大巫女の少女は、消え入りそうな声でそう呟きました。

inserted by FC2 system