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神殿の隣にある大きな屋敷の一室を与えられ、ヴァーシャはヴァシリーを待っていた。
彼女の世話をしてくれた女の人も出て行ってしまい、ただ悶々としながら座っているしかない。
こっそり外へ出てみようと戸を開けてみると、すぐに人がやってきて部屋に戻された。見張りが居なくとも目が行き届くようになっているらしい。
じりじりしながら待っていると、暫く経ってようやく残りの術師たちや、人形たちが通された。
現われたヴァシリーはやはり里の服装に変わっており、ヴァーシャを見つけると笑顔を浮かべた。

「妙な感じだね」
ひらひらした彼女の服の袖をつまみ上げて、彼は言った。
「動きにくいの」
ヴァーシャはそう返したが、本当はそれどころではなく、今後のことを聞きたくてたまらなかった。
真面目な顔をしてヴァシリーを見つめると、彼も真面目な顔になった。

「……話を聞いた?」
「聞いたわ」
彼もほぼ同じ話を聞いていた。
神殿で修業をして力を授けられることが出来るということ。
それを大巫女の望むとおり王さまを討つのに使ってほしいということ。
その辺りはヴァシリーの方としても望むところだ。迷いはないようだった。
「話を受けるのね」
ヴァーシャが言った。
「力を貰って、王さまに会いに行くのね」

ヴァシリーは黙った。そして一度頷いて、言った。
警戒心はぬぐえないにしても、良い話なのだ。
ひとつ予定外なのは、仲間であったはずのヴァーシャが付いていけないこと。冷静に考えれば、そう大したことではない。今生の別れでもなければ、遠くへ旅立つわけでもないのだから。

「待っててくれる?」
ヴァシリーは言う。
そう大したことではないのだ。それなのに、そう思おうとしているのに―――
ヴァーシャは目を伏せる。
村を出てからずっと一緒に居た、それこそ片時も離れることがないくらいに一緒に居たその相手とまた別れるのだ。
今度は同じ里の中とはいえ、村を出る前よりさらに大きな存在になっているヴァシリーがいなくなることを考えると、ヴァーシャの胸は締め付けられるようだった。
けれど彼がそう決めたのだったら仕方ないのだ。
彼とヴァーシャは同じ存在ではないし、枷になるようなことはしたくなかった。
少年は青年に軽くしがみ付いて、小さな声で言う。
「おかしいね。村を出たのに、やっぱり待つのね」
ヴァシリーは少しだけ悲しそうな顔をしたが、黙って少女を自分の胸に押しつけるようにした。

「……そんなに待たなくても良いよ」
ヴァーシャが不思議そうに顔を上げると、彼はうっすらと笑った。
彼女だけに聞こえるよう、低い声で囁く。
「そんなに僕が大人しく他人の言うことを聞いていると思ったの?
 さっさと力を貰ってこの里ごと僕のものにするよ」
そうしたらすぐ迎えにくる、とヴァシリーは言った。

ヴァーシャはぽかんとした。
そしてヴァシリーの身体に顔をうずめたまま、押し殺した声で笑い出した。
「そうだった、あなたそんな良い人じゃないわ」
「ひどいね」
「ううん、誉めてるの」
口を尖らせた彼に、彼女は微笑む。
「私もあの人が言ったことなんか信じないわ」
一人でいるときにはつい大巫女から感じる力に圧倒されてしまったが、
こうしていると今二人でいることの方が信じられるような気がした。
占の結果なんて些細なことだ。
「私たちが分かたれているなんて信じない。
 すぐに同じところに戻れるよね」
ヴァーシャの言葉に、ヴァシリーは頷いた。
強く抱きしめ合うと、その感触が少しでも薄れていかないように願った。
この後ほんの少しの別れが訪れても、忘れないでいられるように。


あっという間に一週間は過ぎ、ヴァシリーと毛皮の男、術師と人形たちの幾人かは神殿に入ることになった。
門のところまで見送って、そして別れる。
ヴァーシャの目には寂しそうな色はあったが、涙はなかった。彼らはすぐ戻ってくるのだと信じようとしたからだ。

「ずっとここで見てる」
彼女は言った。
「助けが必要そうだったらこっそり行くから」
そんな風に彼女が笑うと、ヴァシリーも笑った。
ほんの少し安心したような表情に、心配させていたのだろうかと少女は少し切なくなる。
彼は多分いつもヴァーシャのことを守ってくれていたのだ。
「僕を、待っていて」
ヴァシリーは少しだけ身を屈めて言った。
ヴァーシャはただ頷いた。
ほんの一瞬掠めるような口づけをして、彼は門の中へ入って行く。
大きな門の扉は分厚く、里の全ての知恵が隠されたそこは、ヴァーシャを拒否するように締め切られた。


世界の中心はまだ遠く、それにたどり着くまでの何ものも少女には理解し難い。
けれど最後にヴァシリーに触れたときに、彼女には見えたものがあった。
生まれ育った村を囲むあの深く古い森。
身体を包む懐かしい大きな力に溢れたそこは、きっと過去に見たものではなくこれからまた見る景色なのだ。
またそこに二人で還るまで、ほんの少し待つだけだ。

「……ちゃんと、ここで見てるから」
一人で呟くと、少女は無理矢理笑顔を浮かべ、神殿の門を背にして歩きだした。
感傷に浸るだけの十分な時間はない。早く里の中に溶け込まなければならないのだ。
彼を待っている間少女はこの里で新しい日常を形作らなければならないし―――
空腹を満たしてくれる、たくさんの相手を見つけなければならないのだから。

「ふふ」

小さく声を立てて、先に広がる街並みを見つめる。
そこに犇めく人々と、どんな関係を築いていけるかは全く分らない。
味方になるのか敵になるのか、友人になるのか、あるいは。

「お腹空いたなあ」

いつしか貪欲そうな、心からの笑顔を浮かべて、少女は軽やかに足を運ぶ。
後ろを見ないように、しかしどこか名残惜しげに神殿から遠ざかりながら。
小さな後姿は満開の花に隠れて―――人々の住まう里の中へ、そっと紛れていった。

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