NOVEL

荒野の話 07

彼女は彼の傍らに座って、その顔をじっと眺めていました。
彼の身体は頭の先からつま先まですっぽりと白い布で包まれており、
外に出ているのは顔だけでした。
二人から少し離れた場所には大きな鍋のようなものが置いてあり、
彼女は実際のところその中から彼を引っ張り出したばかりでした。
中に彼を入れて、それから水と一杯の花と―――欠けるであろう部分を補う為に、小さな獣を入れました。
果たして彼は欠ける部分も無く、その身体はまた温かさを取り戻しました。

あとは目覚めるだけ。
そう思った彼女は彼の顔をつねってみたり、頬を叩いてみたり色々していましたが、
特に何事も起こりません。声を掛け疲れて独り言を言う気にもなれず、時折ため息を吐いたりしながら過ごしていました。

彼女は彼の口元に耳を近づけ、目を閉じます。
微かに息をしているのが分かりました。
首を傾げてちょっと微笑むと、また前の通りに座ろうとして、ふとひとりで顔を顔を輝かせます。
それからまた彼の方へ屈みなおし、今度は彼の唇に自分の唇で触れてみました。
するとどうでしょう、彼の瞼がぴくりと動きます。
そして馴染み深い視線が彼女の方へ向けられました。
彼女は跳ねるように身を起こすと、嬉しそうに笑いました。
「おはよう!」
起き上がった彼に、彼女は満足げに言いました。
「気分はどうかしら」

「…………」
彼はわずかに眉を顰めて、自分を見つめている彼女を眺めました。
彼女は大きな眼を見開いて、喜びと興奮できらきらさせていました。
「気分は悪くはない」
彼は言いました。
「しかし困ったことがある」
「……何かしら」
彼女は困ったような顔をして、ちらりと彼の方へ視線を向けました。

「何も分からないんだ」
彼は言いました。
「私は誰だろう」

*

彼と彼女は、ここ暫くの間歩き続けていました。
彼女は軽やかに足を運び、時折駆けたりくるくると回りながら歩いたりします。
彼はその横をすたすたと歩きます。
二人の足元には柔らかい草が生えています。緑の合間にぽつりぽつりと赤や白の花が見え、時にはそれらは露でぬれていたりします。

「この辺りは緑が豊かで良いわね」
彼女は弾んだ声で言います。
「太陽も月も優しいわ」
彼はそんな彼女を眺めて少し考え、一度目を閉じて頷きました。

「私はそうでない場所をあまり知らない」
「そう」
彼女は彼の方へ振り返ると、小さく頷いて微笑みました。
「思い出さないのね?」
「まだ、何も」
そう、と彼女は言いました。

彼は目を覚ましましたが、全てを忘れてしまっていました。
世界に関する知識は持っていましたが、自分の使命も今までの生活も、彼女のことも忘れてしまっていました。
彼女は彼女の知っていることを全部話しましたが、それでも彼は思い出しませんでした。
彼女はそれを聞いて暫く項垂れていましたが、
沈黙に彼が不安のようなものを感じ始めたところで、静かに微笑んで言いました。
「ならまあ、良いのよ。……忘れるべきことだったんでしょう」

彼女は彼に尋ねました。
これからどうするか尋ねました。
彼にはやっぱり何もわかりませんでした。
だから彼女は彼の手を引っ張って、そして外の世界へ出て行きました。

「私たち、二人で歩くのよ」
彼女は楽しそうに言いました。
「私たちは仕組みから外れているの」
「そうだろうな」
彼女の言葉に彼が頷きます。
「仕組みから外れているから、そうなのよ、私たちは決まりなんて守らなくて良いのよ!」

だからこんな風に歩いて良いのよ、と彼女は言います。
彼女はとても楽しそうで、当然のように彼の隣にいました。
彼はあまり表情を動かさず、まばたきも殆どしませんでしたが、やっぱり当然のように彼女の隣にいました。
彼らの足元には柔らかい草が生えており、彼らはその上を歩いています。
けれど彼らの下にある緑の草は、風にそよいだ形のまま、潰されることも彼らの足を露で濡らすこともありません。
地面に足をつけずに、空中に浮かびながら歩いているのでした。

どこまで行きましょうか、と彼女が言います。
どこでも良い、と彼が言います。
どうでもいいの、と彼女が問います。
彼は少し考えます。そして言い直しました。
どこまででも良い、と言い直しました。
彼女は嬉しそうに笑うと、彼の頭へ手を伸ばしました。

彼の頭に付いている、可愛らしい羊の耳と、その後で渦を巻く小さな角に。

「どこまででも行けるのよ」

彼女が心底嬉しそうに言うので、彼も僅かに微笑んでそれに応えます。
そうして二人は幸せそうに、自由に歩いていきました。

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