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黒い樹の器と職人の話 * 10

「外へ戻るには只思えば良いのだったかな」
職人が尋ねると、大巫女は頷きました。
「もう考えているのだろう。この空間が動き始めている」
来たときのようなまじないは必要ありません。引き戻されるのを待つだけでしたが、
その代わり一瞬で世界が変わるわけではありませんでした。
それでも、ただ待っていれば良いとのことだったのですが―――

「っ!?」
世界の回転を待つ職人の身体に、突然鋭い痛みが走りました。
獣のつめで引っかかれでもしたように、腹がどくどくと痛みます。
もらった黒い樹の身体の一部が、連れて行かれまいと暴れ始めたのです。

「大元の意思とは関係なく、属するところへ帰ろうとしているのだ……」
大巫女が言います。
勝手知ったる黒い樹の中と外の行き来ですが、外へ近づく度によりいっそう黒い塊が暴れるので、なかなか元居た世界に戻れません。
かといって黒い樹の中に居続けるのも望ましくありませんでした。

「良い、先に進もう」
職人は言いました。
「痛みはあるけど、見たところ傷はついていないんだ」
「見えないものが傷ついているだけだ……」
大巫女は心配そうでしたが、迷いの無い様子の職人に向かって頷きました。
「普段のやり方ではないが、道を開く。一瞬で済むと思うが、気をつけろ」

身体がぐらりと揺れ、職人は目をつぶりました。
知っている感覚。行きも味わったものです。帰れる、と思ったとき、黒い塊は今までとは比べ物にならないほど激しい抵抗を始めました。
一瞬のうちに腕といわず胸といわず、黒い塊を抱えている職人の身体に痛みが走ります。
肉を裂かれるような感触があるのに、どうして血も何も出ていないのだろう。
そんな風に不思議と冷静なことを考えながら、次第に職人の意識は遠のいてきました。
しかし黒い塊を離そうとはしません。

「手を離せ、死んでしまう!」
大巫女の声が聞こえたようでしたが、そんなことはできません。
「これが無ければ、作れなくなってしまう……」
「お前の命はひどく傷ついているのだぞ」
「…………」
もはや答えることもできず黒い塊を押さえつけるだけの職人でしたが、
急に腕を引っ張られて重い瞼を開けました。

和らいでいく痛みに、頭も少しだけはっきりしてきます。
「ばかもの」
くぐもった大巫女の声がしました。
「お前が壊れてしまっては、何にもならないだろう」

黒い塊は相変わらず暴れ続けていましたが、
既に職人を傷つけてはいませんでした。
大部分の力を失いながらも、大きな力を蓄えたものが、黒い塊と職人の間に入っていたからです。
取り戻したばかりの面紗で黒い塊を押さえ込み、
大巫女はまたまじないを唱えました。



ぐらりと地面が揺れ、黒い塊の動きが止まったかと思うと、職人と大巫女は黒い樹の外の世界に帰ってきていました。


*

黒い樹の中から戻ってきた二人が時間を確かめると、
出発からそれほど経ってはいませんでした。
大巫女はその足で古い力を扱う集まりへ戻ると言いました。
黒い樹の近くには、大巫女が樹の元へすぐ駆けつけられるよう隠し通路があるのです。

「大丈夫?」
職人が心配すると、大巫女はこくりと頷きました。
「世話になった」
青い顔をしていましたが、それでもしっかりとした足取りで立ち去ろうとする大巫女です。
思いつめた様子で歩みを進める彼女が心配になり、職人は思わず声を掛けました。
「僕も一緒に行こうか」
「来なくて良い」
大巫女はきっぱりと断ります。
けんもほろろと言うやつです。
「お前はお前のやるべきことがある筈。
私もやらねばならないのだ」
黒い樹の花びらがひらひらと舞い落ちるので表情は良くわかりませんが、
職人の方へ顔を傾けて言う大巫女は、
ほんの少し微笑んだようでした。
「あの娘の力を流し込んでも壊れないようなものを作るには、
かなり強い念を籠めなければならないだろう。
そういうことをするのはとても難しいが―――きっとお前にはできると思う」
良いものを作れ、とそう言うと、大巫女はふわりとその場から消えてしまいました。

*

黒い樹の中に入るのは身体に大変負担を掛けるようで、
戻ってきた職人は死んだように眠りましたが、
使者の男がやってきたため朦朧とした意識の中で首尾を報告しました。



「えっ?黒い樹を手に入れたんですか?!」
一晩の間にいきなり事態が発展していたため、使者の男は目を白黒させています。
職人は黒い樹から分けてもらった塊を見せ、どんなものを作れば良いか相談することにしました。
「かなり大きい塊だけど、全部本番に使えるわけでもないし」
「お任せします。我々はお嫁様の具合が良くなれば良いのですから」
それで作れる程度の大きさのものを、ということで依頼が完了しました。

「黒い樹の欠片といって良いのでしょうか、不思議な質感ですね」
黒い塊を手渡された使者の男は言いました。
黒い樹の幹であった頃はその形もあって樹らしく見えたものですが、
塊になってしまうとやっぱり別のもののようです。

「加工出来そうですか?」
使者の男が尋ねると、職人は少し疲れは見えるものの、微笑を浮かべて答えました。
「なんだか出来そうな気がする。」

その様子に使者の男は安心したように頷きました。
「製作は、村に戻られてからですか?」
職人が与えられた部屋は工房ではありませんし、使い慣れた道具や場所がある自分の家が一番です。
社に招かれて数日経ちますし、丁度良いでしょう。
しかし、職人は村に帰ることを同意しながらも、腕組をして考え深げです。
「どうかしましたか?」
「いや、何を作ろうかなって」
慌てて首を振る職人ですが何か気になることがあるようで、視線はなおもちらちらと、上のほうへ向かいがちでした。

*

「そういえば、河の様子はどう?」
職人が尋ねると使者の男は険しい顔になりました。
「大雨でもないのに、水の量が急に増えたり減ったりしまして、
近隣の者も困っているようです。あれでは渡れませんしね」
「お嫁さんは?」
いきなり話題が変わったので使者の男はびっくりしました。
「近頃は一日のほとんどを眠ってらっしゃいます」

当たり前といえば当たり前ですが、
事態の好転はまったく無いようでした。



荷造り―――といっても服の数着しかないわけですが、職人は部屋の片付けなどをしながらも、傍にある黒い塊が気になりました。
黒い樹の欠片は樹のようには見えませんでしたが、
しかし職人が眺めているとやっぱり樹のように扱うべきだと思われます。
試しに持っていた蚤で削ってみると、まったく歯が立ちませんでした。
困った職人は他の硬そうなもので突いたり削ったりしてみましたが、結果は同じです。

しかし、黒い樹は別の姿になることを望んでいました。
職人は今度はあの小鳥を作ってみるつもりで削ってみました。
すると少しだけ塊が削れました。
どうやら心持も作業には随分影響してきそうです。
「不思議な素材だなあ」
職人は思わず呟きました。
黒い樹が別れ際に言っていた言葉を思い出します。

――お前は理由を語ったが、お前の望みがそれに追いついていない―――

黒い樹のいうことは難解で職人にはよく理解ができませんでしたが、
何だか気になる言葉ではありました。

最後に、黒い樹に挨拶をしていこう。
使者の男が馬車を用意して待っています。
ほんの少し顔を見せに行くだけのつもりで向かった職人でしたが、
樹の下に立ったとき不意に妙な感じがして、引き返そうとした足を止めました。
黒い樹の中にいたときと、どこか似たような感じがするのです。

普段と違った空間の感覚を身体が覚えているらしく、
意識すればその場の綻びは沢山見つかるものでした。
職人の目に映ったのは樹の下の一角に揺らめく薄い膜のようなもので、意識して踏み入れば容易く破ることが出来ました。
そしてその中、黒い樹の入り組んだ根元の陰に、
見覚えのある小さな後姿が座り込んでいました。

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