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黒い樹の器と職人の話 * 6

「おはようございます!」
王さまの息子の使者の男は、さわやかに挨拶しました。
扉をとんとこ叩きます。
部屋の中からはしばらくもぞもぞごとごとと音がしていましたが、
やがて扉が少し開き、客人が顔を覗かせました。
「おはようございます」
客人である職人は少し眠そうに挨拶して、
わざわざ狭い隙間から外へ滑りでて、使者の男の前に立ちました。



「よく眠れました?」
使者の男は言います。
「あんまり」
職人は言います。
「なんだか地震があっただろう」
驚いて起きたまま眠れなかったのか、客人は若干疲れた顔でした。
「そうそう、それについてお知らせに来たんですよ」
使者の男は言いました。
「森を挟んで向こうに、大きな川があるでしょう。
整備しているところなんですが、一部が決壊しまして。
周りの人々には避難してもらいましたが、あなたも近づかないように」
「そうだったのか……」
職人は驚いたようでしたが、その後すぐ何か考え始めました。

使者の男も考え始めました。
この職人のことを占ったのは、王族付きの占い師です。
占い師の言ったことは大体において当たるので、今回も皆信用していました。
いわば彼は目に見える形の希望なのです。
主が不在の今、職人のことは自分がしっかりサポートせねばならない、と使者の男は思っていました。
情報も物も抜かりなく―――
とそこで、彼はもう一つ知らせがあったのを思い出しました。

「そういえば、もうひとつ」
「なんだい」
顔を上げた職人に、使者の男は言います。
「昨日のお話の―――大巫女ですが、どうも行方不明なようで……
普段から夜中によく一人で出歩いている、変わった女性ではあるようなんですが」

ごとん。
職人の部屋の中から、何か転がすような大きな音がしました。
使者の男はびっくりして扉に目をやります。
職人が目をわずかに見開きました。
沈黙すること数秒、

にゃあ。

中から声がしました。

「…………」
使者の男と職人は、目を見合わせてしばし無言でした。

「私、猫派なんで」
使者の男は言いました。
「朝食のときにミルクもか何か持ってきますね」
「……ありがとうございます」

礼を言われて使者の男はくるりと方向転換しました。
職人は希望なのだから、使者の男がサポートしなければならない―――
だから猫の一匹ぐらい気にしないでおいてあげるのです。
「良い職人は不思議な趣味をしているものだからな」
使者の男は一人で頷きました。

しばらくすると職人の部屋には、
申し訳程度のミルクが一瓶と、二人分の朝食が届けられました。

*

さて、職人の部屋の中には二人の人影が見受けられました。
一人は現在の部屋の主である職人。
もう一人は大巫女でした。
柱の陰に置いておくわけにも行かず、とりあえず職人が部屋で匿うことにしたのです。
最初は躊躇っていた大巫女でしたが、他にどうしようもないと悟ったのか大人しく部屋の中に座っていました。

「黒い樹は面紗を喰って落ち着いただろう」
大巫女は言いました。着膨れて座り込んでいるので、なんだか雀のようです。
「昼の黒い樹は安全だが、あれと通じることは出来ない。
夜もう一度行って、妾は面紗を返してくれるよう頼む」
「でも喰われたんだろう」
職人の問いに、大巫女は頷きました。
おそらく面紗の中に宿った先代までの大巫女さまたちの念は幾らか無くなってしまっているだろうと。
しかし、彼女の属する集まりの人々にとっては、大巫女の象徴である面紗そのものが大事なのだというのでした。
「どうせ力が薄れても殆どの者はわからないし、それを気にするものは全くいないのだ」
大巫女は自嘲めいた微笑を見せました。

「昨晩樹が目覚めたのは、地震のせいなのか?」
職人は尋ねました。この辺りはもともと地震が少ないとはいえない地域で、昨夜の程度ならば数ヶ月に一度は起こります。
毎回目を覚ましているのでは、周りの人々も大変なような気がしました。
大巫女はしばらく黙っていました。額を覆う豊かな髪で表情が図りづらい彼女でしたが、目を閉じると静かに口を開きました。
「あの地震は普通のものではない」
彼女は言いました。
「先程の男が言っていただろう、河が荒れていると。
あの河はこの辺りの土地全体の要だ。
あれが荒れているので、土地全体が不安定になっている」
「それが樹に伝わったということか」
職人は頷きます。たまたま昨日落ち着かない状態だった樹が、土地の動揺を感じ取って暴れたということでしょう。

「折角近頃は穏やかな河だったのに、都の技術をもってしても抑えるのは難しいのだな」
職人が言うと、
「技術だけでは足りぬのだ」
大巫女はぽつりと言いました。
「問題は王の御子の嫁だ」




「どういうことだ?」
いきなり件のお嫁さんの話が出てきて、職人は首を傾げました。
「あの娘は元々この土地を治めていた大きなものの娘だ。
大きなものがいなくなって、娘と彼女を手に入れた男が河の主になった」
大巫女は普通の人々が知らない話を始めます。
「娘と河はまだつながっている。彼女の身体が思わしくなければ、河も荒れよう」
「大変じゃないか」
川が昔のように氾濫すれば、この辺りは大変住みにくい土地になってしまいます。
どうやら件のお嫁さんのことを、なんとしても救わなければいけなくなったようでした。

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