story

黒い樹の器と職人の話 * 5

その夜職人が黒い樹の下に行ってみると、今度は先に大巫女が来ていました。
「また来たのか」
少し困ったように言いました。
早く来ていたのも、職人が何かしないか心配だったからかもしれません。

「他に行くところが無いんだ」
職人は言います。すると大巫女は答えて、
「昼間も来ていただろうが。一日中いるな」
とそんな風に言いました。
驚いたのは職人です。
「見ていたのか?」
「否」
少し笑ったような気配がして、大巫女は樹の肌に触れながら言いました。
「樹を見れば分かる」

「お前がずっと座っていたものだから、樹が影響を受けてしまったよ」
「影響?」
「お前が欲求不満のまま側にずっといたから、樹の方もなんだか落ち着かないのだ」
「その言い方嫌だなあ……」
職人は自分の気持ちが通じたということか、と大巫女に尋ねましたが、
大巫女は首を横に振りました。
通じるというのは交渉できることです。ただ気持ちが通じるだけでは、悪い方へ行きかねません。

「今夜は本当に危ない」
大巫女は幾らか優しい声で言いました。
「樹は眠っているけれど、落ち着かない眠りだから。
夜に目覚めると近寄ったものを見境無く食らうようになるからね」
「そんなに危険な樹なのかい」
職人は目を丸くしました。そんなものがこんなに開けたところに、誰でも近寄ることが出来るように立っているなんて、正気の沙汰とは思えません。

「普通の人間は、夜この樹に近寄ろうなんて思いもしないはずだ。
昼だってそう長くは側にいないのだぞ」
からかうような口調で大巫女は言いました。
「本能でな。お前は鈍感だな」
「その言い方は無いんじゃないか」
職人は不満げです。
それを見た大巫女は小さく笑うと、
「鈍感なだけだ。お前の心は悪い方へは向かっていない。
樹が悪い影響を受けなくてよかったよ」
夜人々がこの樹に近寄らないようにするのも私の役目なのだ、と大巫女は言いました。

「離れておくれ。昼に私のところへ来てくれれば、話を聞こう」
職人は、ほんの少し見えた希望に顔を輝かせました。

とその瞬間。

ぐらり、と地面が揺れました。
空気全体が揺さぶられるような振動、ざわめく木々の音。
遠くの方でどおん、という大きな音が響き、社のあちこちでも灯りが灯り始めました。



「人が来る」
大巫女は言って、急いで手でなにやら印を結び始めました。
どうやら黒い樹の側に人を寄せないよう、結界のようなものを作るようです。
大巫女の周りに一瞬光のようなものが瞬いた後、それが樹の回り全体まで広がっていきます。

「お前も早く遠くへ行け」

促された職人は、しかし大巫女のほうへ走っていきました。
驚いて動きを止めた大巫女は彼に突き飛ばされます。
「な、何―――」
バランスを失って倒れる彼女でしたが、その目の前を黒い枝が掠めていったのに気付き、言葉を失いました。
黒い樹はいまや目を覚まし、その黒い幹に連なる細かい黒い枝を伸ばし伸ばし、
まるで蛇のように這い回って、結界の中にいる者たちを食らおうと動き始めているのでした。

*

職人は比較的のんびりとした性格の若者でしたが、こんなときものんびりしているわけではありませんでした。
横に倒れ伏した大巫女を引っ張りあげると、腰を抱えるようにして走り出します。
「重い」
装飾品のせいか見た目よりもずっしり来る彼女の重みに思わず声を上げると、
「お前、何てことを―――!」
大巫女も悲鳴のような声を上げました。
その間にも枝は迫ってきています。

「建物の中へ。結界を抜けて社の中に入れば追ってこない」
樹の方を見ながら指示を出す大巫女の声に頷いて、職人は前だけを見て、懸命に走ります。
広い庭、大きな黒い樹の下を全力疾走して、白い壁の中へ。
「入った!」
建物の中に入る瞬間、職人は安堵の声を上げました。
だからその瞬間、後で大巫女が息を呑んだのにも気づきませんでした。

「どうしよう、あの樹はあのままで良いのかい?
あの結界の中には本当に誰も入らないのか」
職人は大巫女に話しかけ、彼女のほうへと向き直りました。

知らない女の子がいました。




「…………」
女の子は床に座り込んだまま、目を丸くして職人を見ていました。
「……あれ?」
職人が目を瞬かせると、女の子はよりいっそう目を見開いて、
「……っ!!」
悲鳴を飲み込むようにして顔を伏してしまいました。
その消えかけた悲鳴に浮かぶ声の色、身に纏った豪奢な衣装。
「大巫女さま……だよね」
大巫女のものに間違いないのですが、面紗だけがなくなっていました。
彼女は地面に伏したまま微動だにしません。
しばらく呆然とした後、大丈夫?と尋ねると、
彼女は小さな声で説明を始めました。

「結界から抜ける直前に、面紗を黒い樹に取られてしまった」
職人は小さい蛇の言っていたことを思い出します。
大巫女に代々伝えられる面紗。
もしかしたらこれは大変な事態です。
「先代の巫女さまたちの力が籠もっているから、美味しそうに見えたのだろう……」
「貴女の仲間に知らせに行こう」
職人は言いました。

「駄目だ!」

大巫女は叫びました。
職人が戸惑っていると、
「知らせたら駄目だ。今は駄目」
ゆっくり顔を上げて言います。
大きな目で懇願するように職人を見ました。
「じゃあ、どうする?このままで良いのかい」
尋ねると、とりあえずこのままで良いと言うことです。

何だか変だなと思いながらも、職人は彼女を助け起こし、歩き出そうとしました。
「こっちで良いの?」
彼が言うと、大巫女は袖で顔を隠しながら、怪訝そうな顔をしました。
「貴女の帰る場所」
例の古い力を扱う人々のところへ送っていこうというのです。
大巫女は手を引っ込めると、柱の陰に隠れてしまいました。

「妾は帰らない」
彼女はぽつりと言いました。
「え?」
職人が柱の方へ近付くと、すっぽりと嵌まり込むように大巫女がしゃがんでいました。
先程までの態度や物腰からもっと年上のものと錯覚していましたが、
そうしていると彼女は小柄で年若い女の子でした。
職人よりも二つ三つは年下なのではないでしょうか。

「面紗が無くなっては妾は大巫女ではないのだ。
大巫女でない妾は帰れない」
微かに震える声で蹲る大巫女の表情は伺えませんでしたが、
職人はしばらく黙った後、じゃあどうする、と尋ねました。

「……今晩は、樹に近づくのは無理だ」
大巫女は言いました。
「夜が明けるのを待つ。取り戻しに行く」
「待つって」
職人は柱の陰を覗き込みながら、困ったように言いました。
ここで待つ、と小さな大巫女は、袖に顔を押し当てたまま、くぐもった声で言いました。

inserted by FC2 system