story

黒い樹の器と職人の話 * 4

職人は衝撃と共に目を覚ましました。
いつの間にやら眠ってしまっていたようです。
「…………?」
ふらふらと身を起こすと、頬が痛いのに気付きます。
ああそうか、叩かれたんだ。そう思った瞬間、
「一体何をやっているのだ!」
上のほうから怒鳴る声がしました。

「ああ」
職人は我に返ってにっこりしました。自分が何をやっていたのかを思い出して、更にひとまずの目的が達せられたのも分かったからです。
「貴女に会いに来たんだ」

黒い樹の下で寝こけていた職人の寝起きの言葉に、
顔の見えない大巫女は首をかしげたようでした。

*

昨晩と同じく、大巫女は重そうな豪華な衣装と、顔を覆う布を着けていました。
高圧的な口ぶりで職人を樹の側から引き剥がすと、職人を側にあった階段の下の段に座らせ、自分は上の方に座りました。

「黒い樹は木材ではないぞ」
職人の話を聞いて、大巫女は昼間の巫女と同じことを言いました。
「確かに他のものよりは力を受け入れたり流したりするのに良いだろうが……
あれは人間が好きにいじれるようなものではない。
下手に触れれば喰われよう」
話している大巫女の身体にも、それを聞いている職人の身体にも、
薄紅色の花弁は休む間もなく舞い落ちてきます。
しかし、その中の一枚たりとも持ち帰ることは出来ませんでした。落ちるそばから消えていっているからです。



「貴女はあの樹と通じることが出来るのではないのか」
職人は尋ねました。
「大巫女だからな」
大巫女はぽつりと答えました。代々黒い樹との繋がり方を受け継いでいる大巫女は、時折夜になると黒い樹の下を訪れるのだそうです。黒い樹を通して、黒い樹が糧にする土の中の命や、そこに繋がる全ての力の流れについて見ているのだという事でした。

「ほんの少しで良いから、御子さまのお嫁さんのために幹を分けて頂きたいと、伝えて欲しいんだ」
職人は丁寧に頼みました。
大巫女は偉そうに振舞ってはいますが、それ程話の通じない相手ではないように思われました。
ちゃんとした理由で、真摯に頼めば何とかなりそうな気がしたのです。
しかし、大巫女は首を横に振りました。

「だめだ」
低い声で言う大巫女は、口を開こうとした職人を制して続けました。
「可哀想だが、その娘が弱かったのはその娘の運命だ。
黒い樹に手を出す訳にはいかないのだ。
それに、 加工するのはお前なのだろう。ただではすまないぞ」

しかしやってみなければ分からない、ということで職人も引きません。
「どうしても危なかったらやめるよ。やれることだけしたいだけだよ」
大巫女は諌めるように言います。
「だからやれることなどないと言っているのだ。
それに、たかが一人の人間のことだろう」
職人はやっぱり言い返します。
「御子さまはこの土地を支えていく人なんだし、
そのお嫁さんが元気がないというのはやっぱり良くないことなんじゃないかと思うんだ」
「それは」

大巫女は一言言って黙りました。
実際彼女は社から遠く離れた村で暮らす職人よりも、この辺りの事情は詳しいのです。
お嫁さんが元気がないと言うことはそれだけではなくて、
もっと他に色々影響があることであると知っているのかもしれないのでした。
しかし大巫女の逡巡は一瞬で、すぐにきっぱりとした声で言いました。

「それは人の世の話だ」

*

職人はやっぱり大巫女の協力を取り付けられずに、
仕方が無いので昼になるとまた黒い樹の下に座り込みました。
大巫女が夜は命を吸われるとか言っていましたが、なるほど昼と夜とではほんの少し雰囲気が違うような感じがします。
何か良い方法は無いかなあ。
そんな風に黒い樹を手に入れる方法を考えてはみるのですが、
いつの間にかまた大巫女のことに気持ちが戻っているのでした。

「人の世の話だ」――ときっぱりと言った彼女でしたが、その声は顔が見えなくともはっきり伝わってくるぐらいに、苦渋に満ちたものでした。
多分本人にはお嫁さんを助けてあげたいという気持ちがあるのでしょう。
けれどそれは、できないことなのです。

みんなの言い分を聞くことが出来たら良いのに、と思いながら、暗澹たる思いで座っていた職人の耳に、
不意に高い声が響きました。

「ねえ、あなたどうしたの?」

職人はびっくりして周りを見回しました。
人影が見えないので安心して物思いにふけっていたのです。それなのに、すぐ近くで唐突に声が聞こえたのです。多分、女の人の。
「黒い樹の下でそんな悲しそうな顔をしている人は見たことが無いわ」
職人が再び聞こえた声に耳を澄ますと、それは足元から聞こえてきます。
まさかと思って下を見ると、そこにいたのは小さな白い蛇でした。



「この樹はとても敏感だから、あんまり傍で悲しまない方が」
「君が言ったのかい?」
面食らった職人は、思わず言葉をさえぎるように尋ねました。
「そうよ」
小さな蛇は答えました。高く澄んだ綺麗な声です。
職人は動物と話すのは初めてだったので、一瞬混乱しましたが、
驚異的な順応力を発揮して、小さな蛇との会話を始めました。
あるいはやけくそかもしれません。

「話を聞いて欲しい人がいるんだ。
でもなかなか上手くいかないっていうか、気持ちが伝わらないっていうか」
説明するのも難しいので大変抽象的は相談になってしまいましたが、
白い蛇は首を傾げて――そんな風に見えただけですが――言いました。
「目を見て話せば何とかなるのではないかしら」
「だめだよ」
職人は言いました。
「彼女は顔が見えないんだ。あっちからはこっちが見えてるみたいだけど、私は彼女の目を見たことすらない」
「まあ、それって大巫女さまみたい」
いきなり小さい蛇が言い当ててきたので、職人は噴出しました。
やっぱりあんな格好をした人は社の中にもそういないのでしょう。

「大巫女さまの面紗は代々の大巫女さまに受け継がれるものだから、
人の言葉を通さないようになっているのよ」
小さな白蛇はそんなことを言いました。
「大巫女さまは色々な大きな力を扱うから、周りにいるたくさんの人たちの影響を受けないようにしているの」
「影響を受ける?」
「力は心に一番影響を受けるの」
白蛇は小さいくせに大巫女や社のことを良く知っていました。
「いつの間にか望みの方向へ動いていってしまうのだって。
でも、人の全ての願いを叶えようとしたら、大変なことになってしまうでしょ?
大きい力を使うと、身体も心も疲れてしまうし。
だから、面紗で顔を覆って自分の心も周りの心も無かったようにするのよ」

あなたの心を伝えるには、やっぱり面紗を外すしかないみたい。
白蛇はそういいました。
そんなことは出来ないだろうと思っているのか、少し気の毒そうに。
「そうか、わかったよ」
職人はなにやら考え込みながら言いました。
小さい白蛇はそれを見ると、するするとその場を離れようとしました。

「どこへ行くんだい?」
職人が問うと、白蛇は振り向いて言いました。
「迎えに行くの、そろそろだから」
「誰を迎えに行くんだい」
また問われて、白蛇はちょっと黙りました。
それから、なんだかちょっと恥ずかしそうに言いました。
「大事な人よ」

職人は、蛇にもそんなものがあるのだなあとぼんやりしながら、
今しがた体験したばかりの奇妙な会話は、社の中では日常なのだろうかと考えていました。

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