同じことは王宮でも起こっていました。
壁抜けの娘の後ろの空間から、黒い色がじわじわと染み出しているのです。
水にインクが滲むよう、というよりは、真っ黒い糸の塊が後から後から湧き出てくるというような様子です。
「おい!」
王さまが後ろを指差すと、壁抜けの娘は初めてそれに気付いたようです。
驚いて揺らぐ景色の中から飛び出してきましたが、それでも空間は閉じず、黒いものも依然として増え続けていました。
何がなんだかわからず集まってきていた人々もなんとなく危険なものを感じ始めたらしく、
喧騒の中には悲鳴に似たものも混じるようになっていました。
「なんだこれは」
王さまは綾目の大臣に尋ねました。
こういうよくわからないことはとりあえず綾目に聞くというのがセオリーです。
「私にもよくわかりませんが、澱のようなものかと」
「澱?」
「ものごとの終わりに残ったもの、残ってはいるけれども次に持っていけないようなものを私たちは澱と呼びます」
綾目の大臣は言いました。
「ずっと昔の王さまの頃、やはり年越しの日にこういう黒いものが出てきたそうです。
そのとき炎と音でそれを祓ったというので、年越しの祭を開くことになったとか」
「じゃあ花火をあげれば追い払えるということか?」
「恐らく」
気付けば増え続けた黒い塊は、ぞわぞわとそこらじゅうに広がっていました。
もうひとりの壁抜けの娘が出たという厨房の方から広がってきたのか、
あるいは別の所にも発生源があるのかわかりませんが、
問題はそこに人々が飲み込まれていっていることです。
一体飲み込まれた者がどうなるのか、記録には何も残っていませんでした。
王さまたちは周りにいた人々を慌てて高い所、特に明るい所へと集めます。
次々と侵食されていく景色が、まるで世界の終わりのようでした。
「終わりの花火が用意してある場所はもう呑まれたようですね」
月読の大臣は冷静な口調で言いました。
とりあえず先程の王さま論については後回しにしたようです。
黒服女官やもう少し離れた場所に待機させていた兵士たちを使って、状況を調べています。
「花火には予備がありますが……保管庫まで行かないと」
綾目の大臣が険しい表情で言いました。
保管庫がある北の塔までの道は長く入り組んでいる上、
室内なので黒いものを避けるのが難しそうです。
策を練ろうとした所で、
「時間が無い、行くぞ」
王様が剣を抜いて言いました。
「陛下、いくらなんでも危険です」
「ここに居ても一緒だ、進んだほうが良い」
ごたごたと押し問答していると、状況が飲み込めずきょとんとしていた壁抜けの娘が、不意に顔を上げました。
「あ」
目の前の空間がぐにゃりと歪みました。
*
人々は黒いものが溢れ出てきた瞬間を思い出して息を呑みましたが―――
揺れ動く空間から顔を覗かせたのは普通の人間たちでした。
「兄さん!」
王様たちと一緒に非難していた壁抜けの娘が、大きな声を上げます。
「あ、こんにちは」
大勢に迎えられてちょっと驚いた顔の旅人さんは、
後ろに少女と妹を連れて出てきました。
「道の中は黒いものでいっぱいじゃないの?」
壁抜けの娘は道の中を覗き込みましたが、そこには少し侵食されて入るものの、
まだ歩くには十分余裕があるような淡い空間が広がっていました。
「黒いものは穴を見つけて勝手に出て行くよ」
多分道の中には用が無いんだね、と旅人さんは言いました。
数が増えた壁抜けの娘や、娘に良く似た青年が現れ、
更にその彼らの姿が見える者と見えない者が居るようで、
兵士たちや野次馬は混乱しています。
王さまはちょっと考え込んだ後、旅人さんに向かって言いました。
「そこの……旅人?」
堂々と言いましたが、相手のことが良くわからないので変なことになりました。
「なんだい王さま」
旅人さんはフランクです。
大臣たちが眉を顰めましたが、王さまは特に気にもせず言いました。
「その道を貸してくれ。花火の保管庫まで行きたいのだ」
*
異邦人たちは困った顔をしましたが、
そもそもこの騒動の一因が自分たちにあるらしいことに気付くと、
人々を招き入れることに同意しました。
というわけで即席パーティの誕生です。
道案内役の異邦人たちと、一応戦力であるところといえないでもないというか
とにかく行きたがった王さま、花火等の位置を把握した綾目の大臣。
花火調達のため、道の中を進んでいきます。
なぜか少女は異邦人メンバーに数えられており、
外れるような流れにならなかったため、一緒についてきてしまいました。
「いつもより道が不安定になってるわね」
そうこぼしたのは壁抜けの三つ子のひとりです。
状況に加えて、道を開く人間が四人いるとはいえ、
このような大所帯で空間を渡ったことはなく、なかなかすいすいとは進みません。
不意に伸びてくる黒いものの存在が、彼らの集中力を乱しました。
「せめて、黒いのの動きが封じられるといいんだけどな」
その言葉を受け、綾目の大臣が何かに気付いたように少女の方を向きます。
「娘、例のパン屋の子だろう」
「は、はい!」
役人に話しかけられたことなどない少女は飛び上がりました。
綾目の大臣はその反応に少し困ったようでしたが、
「祝福を受けた砂糖を持っていないか?」
と言いました。
「それで焼いたお菓子なら……」
少女は腰につけたポーチをこわごわと撫でます。
もしものときに旅人さんと食べようと、分けて貰ってきたお菓子でした。
「食べ物を粗末にしてすまないが、それをあれに向かって投げてごらん」
綾目の大臣の言葉に面食らった少女ですが、
そして旅人さんの悲しげな顔が目に入った少女ですが、
背に腹は替えられないということで、
勢いよくお菓子を振りかぶりました。
黒いものへと落ちていったお菓子は、ぱう、と弾けるような音を立てた後、溶け去ってしまいました。
しかしそれと同時に黒いものもぐずりと崩れ、その動きを止めます。
意外にすごい祝福の力に驚きつつ、お菓子を投げ投げ一行は進んでいきました。