NOVEL

荒野の話 03

彼には彼女がなんなのか判別できませんでした。
確かにこの世界にいるべき普通の人間のような様子なのですが、
彼女は何をされても特に何も感じない様子でしたし、傷つけたり焼いてみたりしても、すぐに元通りになってしまうのです。更には、そんなようなことをされたことすら、彼女は気付かないような様子でした。

彼女の存在がまさに異常事態だと彼は感じたのですが、
肝心の報告先のことがどうしても思い出せなくなっていました。
彼の担当である荒野の中を探してみても、彼女の他におかしなものは見つかりません。
彼はどうして良いのか分かりませんでした。

彼女は彼を眺めながら、首を傾げた後に晴れやかに笑いました。
「ならまあ、良いじゃないの。忘れてしまったものは仕方ないわ」
「そんな簡単な問題ではない」
彼は言いましたが、彼女は全く取り合わず、
「忘れてしまったんなら、忘れることが必要だったのよ。
思い出すまで今までと同じようにしてれば良いわ」
とそんな風に笑いました。

彼女の方も自身について少し話しました。
彼女は荒野を歩いていて、ひたすら歩いていて―――やっぱりそれ以外のことは忘れてしまったのです。
でもなんだか勝ち誇ったような気持ちで、そうしているのは気分が良かったと言います。

「なにかその前には、とても悲しいことがあったような気もするのだけど」
彼女は言いました。
「でも忘れてしまったのだから仕方ないわね」
「お前の頭は簡単だな……」
「柔軟なのよ」
それからいろんなことを喋りながら、二人はそこにいました。

彼は大変物知りで、世界中の色々な仕組みを知っていました。
溢れるものものがそれぞれそんな風に出来上がっているのか知っていましたし、どんな風に反応しあうのかも知っていました。薬の知識もまじないの知識も豊富でした。
彼女はそれを眺めたり手伝ったり口を挟んだりして、少しずつ吸収していきました。
時折一緒に外にも出るようになりました。
明るいところから出ると、辺りは相変わらず荒野でしたが、二人の身体は普通ではなかったので、山になった場所まで登っていったりするような余裕もありました。

「月が丸いわね」
彼女が言うと、暗闇の下で彼も頷きました。
「満月の夜は色々なおかしなことが起こるという」
それはもちろんここ以外の場所の話です。荒野にはおかしなことを起こすような何者も存在しませんでした。
彼女は一瞬考えて、尋ねました。
「おかしなことをしに来たの?」
「ただの散歩だ」
「なんだ、また珍しいことを教えてくれるのかと思ったわ」

彼女が地面に転がると、彼も側に座って、小さく息を吐きました。
「私が知っていることは、もう全部お前も知っているよ」
それは注意深く聞けば分かる、幾分優しい感じの声でした。
月の光の下で、いつもよりその表情も柔らかく見えましたし、実際に安らいでいるのかもしれません。

「あなたが知っていて私が知らないことはもっとあるわ」
と彼女は言いました。
彼が顔を向けると身体を転がして隣まで移動し、ゆっくりと身を起こします。
「あなたのことを良く知らないもの。例えばあなたがどんなことを思っているのかとか」
そう言って彼女は彼の胸にぴしり、と指を突きつけます。
「今どんなことを感じているのか、とか?」
彼女がそう言って笑うので、彼は珍しくちょっと口の端をあげるようにしました。
「それは私にも分からない」

なるほどね、と彼女はまた笑いました。

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