NOVEL

「献花の如く、それは」

朝から、
かさかさとした雪が降っていた日。
博士は死んでしまった。





雪は白い。人が通らないからだ。
昨晩の積雪量は少なかった。人気が無く、整備されることもあまり無い道である。もしもう少し多く積もっていたら、かんじきや何かが無ければ歩けなかっただろう。
そうして一晩で出来た白い丘の上を、足跡がゆっくりと横切ってゆく。 辰巳だった。


博士が死んでから、辰巳の立場は微妙なものになった。


というか、彼の行動が予想外のものだったので、上の処理が中途半端になってしまったのだ。
博士の二人目の作品であり、生前最も近くにいた彼の場合、博士の死を―――殺害を、抵抗無く受け入れた人々に、暴れたり反抗したりするのが当然の行動のように思われた。しかし彼は、大人しく博士の死後組織のトップに収まった蜘蛛に従ったのだ。
不穏な立場にいるものの、そういう身の振り方をしているために、処分が出来ない。
中枢にはいられないが下の方に野放しにもしておけない、というような存在になってしまったのである。


そういうわけで今の辰巳の任務は自分の「兄弟探し」だった。博士は自分の創った子どもたちの殆どを、組織の外部に隠してしまっていた。辰巳は隠し場所の手がかりや博士の持っていたつてなどを探すため、彼女が幼少時代を過ごした場所を回っているところだ。
遺体に対面して別れを告げることも出来なかったので、こうやって彼女ゆかりの場所を回るのも心の整理をつけるには良いかもしれない、と辰巳本人は思っている。


さくさくとわざと音を立てながら歩く。時々木の上から落ちてくる雪の塊や、覆われて見えない地面の凹凸なども楽しい。博士は雪を見るのは好きだったが、あまりその中に出かけていくことはなかった。当然博士の後をついていた辰巳も雪遊びはしたことがない。こうして歩くのもなかなか新鮮だった。

さっきから目に付くのが、地面から突き出た枯れ枝に雪が乗っかっているものだった。確か雪のことを立花というのだったか。多分それは結晶が花のように見えるからなのだろうが、今目の前に見える枝も、細くて黒い茎に細くて白い花弁を持った変な花に見える。
不安定な小さな花。
今のうちの組織と良い勝負だな、と思う。


博士が死んでトップを交代した組織は、はっきり言ってあまり上手くいっていない。上層部の人間の引継ぎによるごたごたというのもあるが、無闇に情報を求めて焦っている、というのが正しい。
今辰巳が博士の創りだした子どもたちを捜しているのもその表れといえる。
彼女の才能の粋が集められていると考えられているそれらを探すことに、今の組織はやっきになっているのだ。

早く彼女を超えなければならないから。





―――多分、彼がみんな上手くやってくれますよ   
博士の、蜘蛛への信頼。彼女が自らの死を予言したときに、後のことはどうするのかという問いに向かっての返事だった。
もしかしたら、私が生きている間よりもっと効率よくここを強く出来るかもしれませんよ。
笑っている場合ではないと窘める辰巳をよそに、彼女はにこにこと言っていた。

「違いましたよ、博士」

それは、過小評価だった。
蜘蛛は博士を失って、明らかに混乱している。
彼女は彼の支柱だったのに、それを失って迷走しているように見える。以前のようになんて無理だ。

辰巳はといえば、なんだかわからなくなってしまった。
どこかが痺れてしまったようで、抑揚のない毎日を過ごしている。分からないのだ。判断が下せず、やりたいことがわからない。例えば人々が想定した博士の為の復讐も、殺人者への恨みも、何もかも分からなくなってしまった。

自分も蜘蛛と同じように、支柱を失ってしまったのだと思う。
博士本人だけでなく―――
彼女が生きていたときに辰巳が信じていたような、彼女の望みも。


分からなくなってしまった。






「よう」
いきなり、後ろから、声が掛けられた。
聞き覚えのある、いや懐かしいといってもいいような、これは。
「むらさめさ…」
「待て待て」
振り返ろうとしたとき、ごり、と背中に硬いものが押し当てられた。
「俺は村雨さんじゃないぞ、お兄さん」
何を言い出すんだこの人は。
「玲子さんの右腕で博士に頼まれて俺に一般常識を教えてくれたので、
忘れたくても忘れられないその声は村雨さんではないですかね?」
「村雨さんはドイツでカタギのハッピーライフを送ってるんだから、こんなところにいる筈無いだろう?」
「でも声が」
「振り向くな」
鉄の塊がカタギのハッピーライフの大黒柱によって押し付けられているような感じが
したので、大人しく後ろを向いたまま話をすることになった。


村雨(不確定)の目的は自分と同じだろう、と辰巳は想定した。
というよりも、多分辰巳のように手がかりを捜しに来たRussの人間に先んじることの方が目的だろう。
博士本人が隠したものを、自然に見つかるまで組織の手に渡すまいというのが、
彼と、多分その背後にいる玲子の方針だ。
「俺は此処には手がかりも何も無いと思いますよ。
博士自身だってたった1年しかいなかった所に思い入れがある風にも見えませんでしたし」
「俺もそう思っている」
じゃあ、ここで俺とあなたが接触してもそれ程まずいことは無いんじゃないですか、と言ってみる。
何か価値のある土地ならば別だが、確かここは村雨も訪れたことがある場所。懐かしい土地に遊びに来て偶然出会ったでも容認されるのではないかと思ったのだ。
まあ、ちょっと組織と玲子たちの間に疑心暗鬼は生まれるかもしれないが。玲子ならば蜘蛛程度のやることなど軽く乗り切るだろう。
辰巳としてはこんな緊張を強いられる状況は望ましくない。さっさと後ろを向かせて欲しい。

「別に、お前が思っているような理由でここにいるわけじゃない」
村雨の答えは意外なものだった。
「お前に、忠告に来た」
…忠告?驚いて振り返ろうとして踵を蹴られる。

「野宮サエのために何か出来なかったのか、とか考えてるだろう。お前のことだから」
「…それは、当然だと思います、あんな」
いきなり死んでしまうんだから。


予言までしておいて、なのに具体的なことは何も言わずに、その日が来たらあっさり殺されてしまった。
いつでも辰巳は相談できるところにいたのに、相談どころか、肝心なその日に辰巳は博士自身の命令によって傍から離されていた。
出張から帰ったら―――もう博士はいなかった。



「嫌な顔つきをしている」
「嫌な?」
「死んだ人間に引きずり込まれそうな顔をしている」
「俺が?」
「お前が」

後ろから溜息が聞こえた。

「サエが何を考えていたかなんて、玲子にだってわからない。
そもそも人間の望むことなんて、それこそ断末魔の瞬間まで変化するんだ。他人が悩みこむようなことじゃない…お前の方が、壊れる」


背中に当たっていたものが、離れる。
だが、辰巳は動かなかった。前を見つめたまま黙る。

「サエは自分で納得していないようなことはしない。
自分で決めたし、お前に自分の意思を表明して行ったんだろう?今は、それを信じるしかないだろう。
彼女が運命に巻き込まれてしまっただけのようには考えるな」


あなたの使命は、
この組織を、見ていること
私の、代わりに。


博士が自分の創造物としての辰巳に与えた存在意義がそれだった。
私はそのためにあなたを創ったのですよ、と彼女は時折話してくれた。言い聞かせた、というべきか。
迷いも感傷も無く、冷静に周りの人間たちに役割をふっていったのだ。

「それよりも、彼女の冥福を祈ってやれ」





ざく、と音がしたかと思うと、辰巳は雪の積もった丘に一人きりで立っていた。
後ろに立っていた誰かさんはというと、初めからいなかったかのように完全に消え失せていた。
いったいどんな業を使ったのか、雪の上にも立っていた場所以外には跡らしいものが見当たらない。

「本当に忠告だけのために来たんですか…」

ふと雪とは違うものに気が付いてかがんで見ると、
足元に白いもの、プラスチック製。お弁当用のバナナ入れだった。
…騙された…
ケースをとりあえず拾い上げると、辰巳はもう少しぶらつくことにした。

冥福を祈れと言われても、やはり考えてしまうことはあるのではないだろうか。確かに今、博士の心の内を考えてみたって彼女にとって何の救いにもならない。
しかし、辰巳はそうそう理性だけで行動できるタイプでもない。それが無駄なことであっても、考えることをやめられないのだ。

けれどそう、例えば、博士は。
さくさくと雪を鳴らしながら辰巳はふと思う。

理性だけで行動できたのではないだろうか。
終えるべきことを終えてそのときを迎えたし、逆にそのときまで終えられないことには手を出さなかったのかもしれない。
何にも溺れなかったし、溺れられなかった、のかもしれない。

それは少し寂しくはないだろうかとも思う。
特別親しかった人達にも結局助けも求めず、出会ったことそれ以上は決して望まずに、終わりを遂行した。
そもそも博士が寂しさを悪いものと感じていたかどうかも分からない。
でも、それを思うと―――哀しい。
寂しかったのかな。
ただ辰巳には彼女の望みはやっぱり分からないので、これも結局は想像に過ぎない。


でもきっとこれが自分の弔い方なんだろう、と彼は思った。
真っ白な雪の中、他からの喚起は何もなく、ただ思い出す。
白く冷たいこの場所は、彼女の研究室にも似ている。独りで葬式をあげている様な気分になる。
手向けには、薄く積もった雪の花。

ああ、でも、博士の好きな色は白じゃなかったな…
つじつまあわせにも躓いて、なんとなくふわふわした気持ちになる。
雪の中で少しだけ、笑った。

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