「誰でもない、君の為に」
1.
「 Herr. ハインリヒ・ウェーバー」
10年前、その少女はこう言った。
「隣室のノミヤ・サエと申します―――お忙しいところ 申し訳ないのですが、
私を、助けてくれませんか?」
*
「 Herr. ウェーバー、 確か君の部屋に大きい犬のぬいぐるみがなかったかね?」
一瞬意味が分からなかった。
午前 10 時の研究員棟の一角、喫煙所。
のんびりするというよりは活発に活動が行われる時間帯のせいか、利用者は二人しかいない。
相手の話から一瞬意識が離れていたことに気づいたハインは、何の話をしていたか記憶を手繰った。
「甥っ子のお守りでしたっけ?」
今目の前に立っている先輩の 5 歳になる甥が、明日 2 時間ほど彼の家に預けられるとか何とか。
「なにかおもちゃがあると良いと思ったんだけどね」
「それでぬいぐるみ…あんなの良く覚えてましたね。」
実は、自分でも存在を忘れていた。確かに部屋にあったような気がするが、今どこにあるか思い出せない。
「だって、珍しいじゃないか。
あんなに無機質な部屋なのにいきなりでかいのが置いてあるから、一体何なのかと思ったよ。」
きっと彼は今でも何なのかと思っている。
「変な噂が広まったら嫌だな…」
「君は目をつけられているからねえ」
気の毒そうに、しかし他人事なりの気軽さと好奇心を滲ませながら彼は言う。
「目をつけられるほど優秀というのも、羨ましいことだけど。」
「優秀だなんていわれながら、使い捨てにされるんじゃ困りますよ」
「押さえつけられるより良いだろうに…君が今の時間暇そうにしているのも驚きだよ。野心家なのかそうじゃないのか分かりゃしないなあ」
辛抱が足りないのはわかっていたが、どうにもならなかった。自分の能力で、自分として何かをやりたいと思っていたら、研究所に入って早々まずい立場に追い込まれた。
今はただ、飼い殺されながらここにいる。
「ぬいぐるみ、貸して貰えないか?」
「…ええと」
ハインは首を傾げた。
自分のものだったら、構わないのだが…
「ちょっとあれは、預かり物だから」
「あれ、そうなのか?」
申し訳ありませんが、と一応謝って、ハインは部屋へ戻ることにした。
そう、預かり物。
ただし返すあてはあまり無い。家に置いておくとなんだか変な趣味みたいなので、研究所の物置に置いておくことにしたのだ。結果は同じようなものだったが。そろそろ処分しなければとも思うのだが、人のものであることもあって捨て難く、そのままとってある。
持ち主は、確かあの時 12 歳くらいだったか。
ぬいぐるみで遊ぶには少し大きかったような気がするが、状況が状況だった。何かに縋っていたかったのだろう。
4 分の 1 東洋の血が混ざった、優しげな顔立ちの少女。
柔らかい金の髪、蒼味がかった紫の瞳。
こわばった表情をしていたが、なぜか別れ際の笑顔の方が印象に残っている。
今頃どうしているだろう。
鍵を開ける。
またいつか、どこかで。
別れ際にはそう言っていたけれど―――
そこで、ハインは気がついた。
鍵がかかっていた筈の部屋の中に、誰かがいる。
動物が棟内に入り込む筈もなく、はっきりした人の気配がある。
泥棒か?こんな所に?
誰かの嫌がらせだろうか。
思わず踵を返して部屋を出て行きたくなったが、とりあえず確認しないことには始まらない。
借りた本や書類が積み上げられた本棚の、その裏。
10年前の笑顔が。
ノミヤ・サエが立っていた。
*