NOVEL

「ともすれば零れそうな思いが」

廊下は寒い。

冬だからだ、というのがひとつの理由。
もうひとつの理由は、空気の温度、である。冷え冷えとした空気が漂う、白い廊下の奥。
凍りつきそうに険悪な空気を醸成しながら、男が二人向き合っていた。

一人はまばらに切られた濃い茶髪、齢は20代後半位に見える。目が若干垂れ気味で、口にするめの足を一本咥えていた。
もう一人は淡い金色の髪に、彫りの深い顔立ちをしている。全体的に色素が薄く、碧眼が浮かび上がるようだった。こちらは禁煙パイプを咥えている。
二人とも何故か荒んだ目をして、相手と視線は合わせない。形だけ見れば無関係の人間同士、互いを意識していないようにも見える。が、何らかの力が働きあっているらしく、そこでこの空気である。

「君は、何」
白い男が口を開いた。
「何が」
不愉快そうに眉間に皺を寄せ、茶髪の方が答える。噛み付きそうとまではいかないが、敵愾心が丸出しである。しかし残念ながら相手を怯ませる凄みは無かったらしく、白い方は抑えた声でもう一度質問をする。
「だから、何してるんだい、ここで」
「博士を待ってる」
親指で廊下の奥を指差して言う。そして言った後早口で付け加えた。
「あとは変なのが寄り付かないようにしてるんだよ」
「…君は犬にでもなったつもりなのかい」
「いっ…」
人間から何かどす黒いものが出てきた、と人が見ていたら言ったかもしれない。
「じゃあお前は何しに来たんだよ」
「私は彼女に頼まれ事をしている」
返事は簡潔である。「上首尾に行ったから報告しに来た」
「上首尾だったなら後で良いんじゃありませんかね」
要約するとあっち行け、である。
会話は互いが分かり合う為になされるものでもあるが、
今現在その役割を意識しているものはここにはいない。


片や博士の傍らに侍る人間、
片や博士の支えとなる人間。

茶髪の方   辰巳は、常にと言っても過言ではないくらいに博士の傍にいる。あまり他の人間が傍らにあることを必要としない博士によって、それを許されている数少ない人間である。博士にとって大事な作品でもあり、簡単なボディガードとして機能する。
しかしその存在は男性としては殆ど意識されていない。本当に博士にとってはペットの犬くらいの扱いなのではないか   と辰巳自身も思うことがある。

白い方、通称蜘蛛は、博士の手となり足となる。彼女の研究に必要なものを手配し、環境を整える。そんなわけで博士が今一番頼りにしてる人間といえる。
しかしそれでも、彼女は彼にとってとても遠い存在である。
当然のように傍にある、ということが出来ない。
実質的に役には立っている筈なのに、ときどき自らの存在意義がよく分からなくなることもあったりする。

かくして互いに持たないものを羨むのだった。
片方は相手の頼もしさ、片方は相手の近しさが、欲しくてたまらないものとして映る。
隣の芝生は青い、ともいう。
その感情はまるで滲むように抑えてもどうしても零れ出てきて、
空気を変え温度を変えていく。
再び静まり返った廊下の空気は、今では少々の憂鬱を含んでいた。





実験が上手くいったのか何なのか、意気揚々と出てきた博士だったが、
「…?」
無言で驚いた顔をする。
「お二人とも、表情が硬くはないですか?
もっと暖かいところで待っていて下さったら良かったのに」
いえ別に、寒くなんてないですよ、とか言いながら牽制しあう姿勢を崩さない二人である。
そうですか、と博士は柔らかい微笑みを向ける。その場の雰囲気が少しだけ和やかなものになった。
が。
「待っていて頂いたのに、すぐに出かけることになってしまうので申し訳ないんですが」

手に持った無骨な鞄を誇らしげに掲げる博士。
「玲子さんたちに頼まれたものが出来ましたので、すぐに届けに行かなければ!」
言ったその笑顔は、さっきまでのものとは何かが決定的に異なった微笑み。喜びが端々から零れ落ちるような、心からの笑みだった。
ちなみに博士がこんな表情を見せるのは彼女のボスの「玲子さん」とその右腕の「村雨さん」がらみのことについてだけである。
その表情の変化は無意識なのだが、
…あるいは無意識だからこそ、
なんだか虚しくなってくる二人である。

「そういえば、お二人も最近玲子さんたちに会っていないですよね……一緒にいらっしゃいますか?」
「行きます」「行こう」
二人の意見が一致したのは顔を合わせてから初めてのことだったが、
互いへの不快感と、たった今突きつけられた現実による倦怠感のせいで、あまり有り難味はない。互いに一瞥してから、ぐっと何かを飲み込むように、博士の方に無理やりの笑顔を向けた。
「お二人とも、表情がなんだか似ていますね?」
博士が興味深そうに言った。

望みは沢山あるけれど、
いつかは何かになれますように、と祈りつつ。
楽しそうに歩いていく博士の後ろを、骨身にしみる外気に向かって踏み出していく二人なのだった。

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