NOVEL

「その姿は祈りに似ている」

*
あと、24時間残っているだろうか。

からからとベッドを運びながら博士ことサエは考えた。
別に博士という肩書きは持っていないのだが、常に白衣で研究に没頭する様子から、
また直接名前を呼ぶのもやりにくいような雰囲気を彼女自身が持っていたのも手伝って、その通称が定着してしまっている。
サエが自分のプライベートルームに運び入れるベッドには、5歳くらいの子供が横になっている。静謐な廊下をただ黙って運ばれている様子は大人しすぎる気もするが、ごく普通の幼児であり、それを運ぶサエは母親のようにも見えた。
実際、彼女はその子供の母親である。一から作り上げた、博士の最後の作品。
彼女が後に名前を消され、創造主と呼ばれるようになってから、
「それらはその存在の一部を抽出したものである」と伝えられることになる、7人の子どもの七番目だった。

「博士」
子どももサエを博士と呼ぶ。
「どうしました?繭」
サエは子どもに付けられた名前を呼ぶ。無表情に見上げる相手に、一見優しいが感情の見えない笑顔を向ける。
「貴女は本当に死ぬの?」
「はい、そうですよ」
「それは確実なの?」
「ええ…今日は、あなたにお別れを言いにきたのです」
この部屋を出たら、きっとすぐでしょう、とサエは言った。

そもそもこの「シリーズ」は彼女が人間兵器を造れとの命を受けて始めたものだったが、
2作目以降はサエが自身の存在を残すことを一応の目的として、
一つ一つコンセプトを設けて創るようになっている。
一人目は自由、二人目は傍観。三人目は確信、四人目は親愛、五人目を普遍として、六人目を希望とした。
そしてその六人目と対になるのが此処にいる七番目    絶望の子どもだった。
今からこの子は眠り、必要なときが来るまで隠されることになる。

「僕は博士の絶望でいいんだね?」
子どもは薄い蒼色の目を見開いて尋ねる。氷のような瞳になった、と思いながら、サエは頷く。
「あまり内実は伴っていませんけれど、そういう風に創りました。希望が無くなったときに、あなたが目覚めるようになっています」
「希望と対という意味だけの絶望?」
「そう」

子どもに、彼女の意思を伝えていく。彼らに託されたものを知らしめ、使命としてその生を与える。以前同じ会話を繭と交わしたので、これはただの確認作業だ。
そしてこれが多分、生きている間の仕上げの作業になる、とサエは感じていた。
最後に別れを告げる相手が自分の絶望というのは、なんだか面白い。
そのとき、繭が以前の会話と異なる質問を投げた。

「博士は絶望しているの?」

一瞬、サエは驚いた。だが考えてみれば、確かにそれは当然の質問だ。創ったシリーズが彼女の一部だと教えているのだから、絶望も彼女の一部だというのは当然の帰結といえるだろう。その確認の、質問だ。繭にとってあまり重要なこととも思えないが。
「望みが絶えているという意味では、そうですね」
繭は目を瞬いてまた尋ねる。
「それはどんな状態なの?」
「充足している、という状態です」

*

同じような会話を、別の誰かとした。
確か、玲子の引退宣言のとき。
円柱形をしたガラス張りのビルの、その屋上。
その引退宣言がまた突然で、玲子の右腕だった村雨と、お抱え科学者だったサエが、
考えをまとめながら話していたときだ。
空がやたらと青かったのをよく覚えている。
村雨が玲子に付いて行くのは既に決定事項だった。
サエはといえば、何故か玲子から後は頼むと言われてしまったし、
きっと実質的なことは蜘蛛に任せることになるだろう。今と変わることは玲子と村雨がいなくなることだけだろうから、言われたとおりに組織のトップを継ごうかと考えていた。
その旨を伝えたときに、村雨に望みは無いのかと尋ねられた。
「言われるとおりで本当に良いのか?」
真面目(まともとも言う)な人だったので、きっと今も、幸せながらも苦労していることが想像される。
「あんたの望みは何なんだ?」
そのときの答えが、確か。



「博士は、満足した?」
眠そうな繭は、途切れがちに問いかける。
「はい」
「なら、僕はこのまま眠ればいいんだね」
「そうです」



満足感。
救い出されて、はや10年―――それは世間一般から見たら誘拐という形で見られるものではあったが、彼女にとっては間違いなく救出だった。
10年も幸せに過ごせたのだから、それ以上に何を望もう?
実際もう潮時だとサエは思っていた。
時は確実に近づいている。密やかな計画も進めなければならないが、
このまま傍にいれば、勘の鋭い玲子のこと、裏の裏まで読まれてしまう可能性がある。
「玲子さんは、彼女がやりたいことを自由にやっていてこそ玲子さんなのですから、それが続いているのなら私に言うことはありませんよ」
村雨は町並みを眺めながら、首を傾げて立っている。
「私の望みは研究と、それから玲子さんと貴方という存在の存続です」
村雨はこちらを向かずに、そう、と言った。
この言葉は彼がきっと玲子に伝えるだろう。
告げた決別は寂しくも悲しくもなかったが、染み入るように、確かだった。
どうぞ、お幸せに。



「おやすみなさい、繭」

眠った繭は暫く安全に隠しておかなければならない。場所を整える為の準備をしながら、サエは友人たちとの別れを思い返していた。見たことのある筈の無い外側からの視点で、映画か何かのように頭の中で映像を流している。
このことについては、こうして何度も思考を繰り返すことが多い。
思い出深いことだったからだ、と彼女は理解しているが、
もし彼女が他人にそのことを話したら、その理解が彼女にしては、珍しく、間違っていることを指摘しただろう。
即ち、彼女が幾度も思考を繰り返すのは、
彼女が未だそのことについて納得出来ていないからなのだと。

辿り着けないところにある心は置き去りにされたまま、
それでも、思い出す、思い出す。
希望があった。
そして今は、何もかもが無くなって、柔らかい静寂。
七番目が絶望なのは、単なる言葉遊びだ。絶望のスイッチが希望。自分をそのまま残すという名目ではあったが、もともとそれ程考えがあって始めたことではない。希望とか絶望とかは個人的なことではなくて、人間に共通の要素だと思う。創るときに指針が必要だったという、それだけ。
それでもルールに当てはめて絶望というならば、これ以上の望みが無いから。
玲子と村雨は楽しく暮らしている様子。こちらが心配するまでも無く、きっとこれからもそうだろう。
そして研究の方はこの七番目の子どもで終わった。だから、もう望むことは何も無い。
じっと終わりだけを待ち続ける時間は安らかで、平穏に満ちていた。創造主以外にそれを知る人はいなかったけれど。
だから彼女は最後の子どもを見つめる。見守るように、傍らに佇む。
創りあげた最後の子どもは、
緩く丸めたてのひらを合わせ、横を向いて眠っている。
眠る前、翌朝無事目覚めるよう祈りを捧げる風習もあると聞くが、この子が次に目覚めるのはいつになるだろう。
サエがそれを見ることはないだろうが、いずれにせよそれは希望の喪失のとき。
絶望した者は祈るだろうか、と
彼女は黙って考えた。

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