NOVEL

透明なもの

「灰皿はな、許してるんだよ喫煙を。そして誘っているのだ。俺にはわかる」
「…そういわれてもね…」

ベランダには黒い男。室内の机の脇に白い男。
黒い方は煙草を口に咥え、白い方は指にパイポを挟んでいた。
パイポ。禁煙用パイプである。
白い方―――ハインはヘビースモーカーである。特にこだわりもなく吸い始め、なんとなくそうなってしまった。そんな風に、特に健康には気をつけない性質であるが、最近やむにやまれぬ事情で禁煙せざるを得なくなった。
だから今はパイポだ。

そんなわけで目の前に灰皿が置いてあったりすると不毛だった。
その灰皿をくれた人のために禁煙していると思うともっと不毛だった。
否、これは灰皿ではない。ただの切子硝子だ。鑑賞するものなのだ。
そう考えてみるのもまた不毛だった。

「もらったんだから使えばいい」
黒い方、寂蓮はそう言う。
灰皿はプレゼントだった。一月ほど前に、サエがハインに贈ったものだ。彼女自身は煙草が好きではないらしいのだが、なぜか「お誕生日に」ということで買ってきた。
あるいは煙草が好きではないからこそ、相手が使いそうなものとして印象強かったのかもしれない。
ともかくそういう経緯があった。

しかしハインの方は、サエのために禁煙しようと決めていた。彼女が望まないことはしたくなかったし、彼女を害するようなこともしたくなかった。
傍から見るとなんだか面倒くさい話である。
結果、それは一度も使われず、机の上でずっと透明なままだ。
「ものは使われてなんぼだろう」
「小物入れや鑑賞に使うよ」
ハインはそう返して、横で遠慮なく煙草をふかしている寂蓮に目をやる。
寂蓮は今まで幾度か禁煙しようとして、結局できなかった口だ。ハインの禁煙に興味があるらしく、時々様子を見に来る。
「いつまで見てるだけで我慢できるかな」
不安を煽るようなことを言いながら去るのは、悪役の鉄則だ。そういいながら彼はベランダから出て行った。多分悪役は扉から出て行ったりしないのだろう。

一人になったハインは、机の上に目を向ける。

きらきらと切子硝子に反射して光が散ってゆく。
灰皿の下には小さな風呂敷が畳んで敷いてある。麻の葉模様に蝶や小花を散らしたもので、硝子の下に透けて見えていた。
白い切子の線が、まるで蜘蛛の糸のようにも見える。
糸に囚われたような心地。
蜘蛛の名前を貰ったのは自分の方なのに。

サエの、その透明な笑顔を思い浮かべる。
十年越しの再会で、彼女は笑ったりするようになっていたし、自分は煙草を吸ったりするようになっていた。
サエの笑顔は優しい。とても綺麗だと思う。自分でも戸惑うくらいだ。
しかし、自分に向けられる笑顔には手ごたえがないような―――それがずっと感じていることだ。
すり抜けていってしまう。自分がどういう感情を向けられているのか、よくわからないのだ。
向けられる笑顔を嬉しいとは思うのだけれど、まるで自分の視線だけがすり抜けていくようで。
ときどき確かめたくなる。
本当に自分が、彼女にとって意味のあるものなのか。

「いつまで見てるだけで我慢できるか、ね」

切子模様に触れながら呟く。

机の上の切子硝子。
冷たく澄んだ透明で、シンプルな直線の模様が雪を思わせる。
本来の用途は灰皿なのだが、残念ながらそうして使う予定はない。
だから、あくまで灰皿ではなく、切子硝子である。
ひどく透明で、綺麗であったが、どう触れて良いのかよくわからないという、そういうものだった。

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