NOVEL

「ぽたり、ぽたり、」

「…博士、室内なのに雨が降っています」

送別会のあと、Russ本部の最上階会議室。
華々しく裏の世界を蹂躙した組織Russの創始者にして初代ボスは、やはり華々しく引退を宣言して
(曰く、「普通の女の子に戻りたい!」)
誰より信頼する右腕と共に、悪名も権力も後ろに丸投げして去っていった。
食器類やら金モールやらはもう片付けられて、普段の殺風景な部屋に戻っていたが、片付けだけでは元に戻らない部分があった。天井の穴である。重役だけの小規模なパーティだった割にテンションの高い輩ばかりが集まったからか、壁や床にも事情を知らない人から見たら心配されそうな傷がついていた。

「直しましょうか」
「いえ、大丈夫です」

窓から外の雨を眺めていた博士が振り向いた。
「この部屋には機器は置いていませんし…洗面器でも置いておいて頂けますか?」
「はい…」
博士の指示は的確である。だから短い。特に今は短い。
彼女の心情を読みとろうと話しかけた辰巳だったのだが、
目的が全く達せられなかったために所在無げに立ちつくすことになってしまった。

博士にとって初代ボス、“玲子さん”は、
彼女を拾って思う存分好きなことが出来るようにしてくれた恩人であるし、多分、数少ない友人であった。
そんな初代ボスから今ボスの座を受け継いで、博士が現ボスだ。
しかし研究一辺倒の博士はそんなもの貰っても嬉しくないだろう。丸投げされた権力は博士の助手、「蜘蛛」の方に行くに違いない。博士が興味が無いのだから、その辺は辰巳としても異論は無かった。

ともかく問題は博士が沈んでいないかということだけなのだ。

彼女意外とポーカーフェイスである。微笑を絶やさない。
実験中も絶やさないので大体の人にマッドサイエンティスト呼ばわりされてしまう。
内実も伴っているが。顔立ちが綺麗なだけにやな感じだ。
とにかく、博士は手強いのだ。

辰巳は博士に作られた人間であり、生まれてからずっと一緒に居るのだが、やはり彼女の感情を読むのは難しい。
雨を眺める横顔を眺めていると、博士がまた口を開いた。
「玲子さんたちは今頃ハバロフスクの上辺りでしょうかね…辰巳さんはお土産は何を頼みますか?」
なんだか気を使われているような気がする辰巳である。くるみ割り人形がいいですね、とか言いながらさりげなく博士の傍に寄ってみる。

「洗面器置きました?」
「蜘蛛の奴が全く使いやがらない灰皿を置いておきました」
「小さくないですか?」
「その下に奴のデスクの引き出しを一つ抜いて置いておきました」

博士はにこにこして彼が嫌いなのですね?と尋ねた。
辰巳も笑顔でそんなことは無いですよ、と返す。

蜘蛛は博士が少女時代に出会って、辰巳が生まれて間もなくスカウトされてきた男だ。
博士よりも年上だが彼女への忠誠心は辰巳に勝るとも劣らず、また博士と違って研究以外の面でも色々と有能な人間である。もちろんそんなところが辰巳には気に入らない。
博士が好きに自分の研究に没頭できるのも今では奴のおかげだ。
そんなところが辰巳には気に入らない。
初代ボスこと玲子さんのウェディングドレス姿がちらついた。

「博士は」

澄んだ瞳がこちらを向く。

「結婚とかはなさらないんですか?…蜘蛛とかと」

蜘蛛は喫煙者である。灰皿は博士自ら用意したものだ。しかし博士が喫煙者ではないので、蜘蛛は博士の前では煙草は吸わない。そんなわけで綺麗なままの灰皿は、なんだか微笑ましいような憎たらしいような関係の象徴だ。
博士と蜘蛛の関係は、博士と辰巳の関係とは決定的に違う。
辰巳は殆どいつでも博士の傍にいることを許されている。それが逆に、彼の立場を自覚させる。彼は多分、彼女の一部であり、番犬のようなものなのだ。
「結婚なんて私のすることではありません、知っているでしょう?」
博士が首をかしげる。

「私はもうすぐ殺されるのだから、そんなものは相応しくありません」

「でも、先のことなんて分からないじゃないですか!」
辰巳はつい声を荒らげる。
「博士の代までその、呪いが続いているかどうか、はっきりとは言えないでしょう?」

「リスクが大きい」
博士は答える。
「それに、私はそんなものは求めていません」

「でも、です。あなたにとって蜘蛛は特別だと言っていたでしょう?あいつと、幸せになれませんか?」
「辰巳さん」

名前を呼ばれた辰巳が我に返ると、博士は真顔になっていた。

「今日はしつこいですね。疲れているのなら体を休めて下さい」

博士はやんわりと微笑んで、
「私は十分幸せです。それに、彼が特別だというのはそういう意味ではありませんよ」

まるで辰巳に言い聞かせるような、穏やかな微笑だった。何も言い返せないのを知っている。
そういう笑顔を良く使う。いつでも、使う。
それはいつでも浮かべられる笑顔でしょう、と辰巳は言ってやりたかった。彼女が本当に心を許したような、玲子さんたちと一緒に居たときのような、その笑顔とは全然違う。それが戻ってこないと知っていて、それでも幸せですか、と。
言ってやりたかった。しかし、辰巳には彼女が望まないことはすることが出来ない。

「…これからはどうするんですか?博士、もうボスですよ。偉くなっちゃいましたよ、随分」

若干ふてくされて尋ねる辰巳に、博士は軽い調子でそうですね、と答える。
「あなたの弟妹作りに専念します、それなりにぎりぎりですからね。
望むことはもうそれだけです…」

くるりと思案気に部屋を見渡し、確認するように頷いた。
それから、ふと動きを止めて、屋根の穴を眺めた。

「音がしますね」
「灰皿に落ちる音ですね」

ぽたり。


「丁度良いです…」

何が、と尋ねると、博士は遠くを眺めるような目で、

「運命が、染み込んで来る様。」

血の中に刻まれた、呪いという名の運命が。
ぽたり、ぽたりと。

何を思っているのだろう。

両親の最期か、最愛の友人か、あの、特別な人間か。
死を待つだけの運命だろうか。
何でも良いから、幸せを求めて欲しかった。博士の幸せのためなら何でもするのに、彼女は自らにそれを許さない。


零れ落ちる水滴が、
まだ見たことのない彼女の涙の様だった。

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